造船業界の再編
皇紀2590年 6月10日 帝都東京 市ヶ谷
史実の川南工業は1936年に旧松尾造船所の施設と敷地を買収し造船業に参入した新興の企業であった。
この世界でもやはり25年に経営難から閉鎖された旧松尾造船所だったが、時流を読んだ川南豊作が同年中に買収し、海軍省が指導する優秀船舶造船施設助成金(※原資は加藤高明内閣の海軍への和解金である巡洋艦建造補正予算)によって近代的な量産性に優れた大規模乾ドックを有する一大造船拠点へと手を加えたのである。
史実では1万重量トン規模3基、10万重量トン規模1基という規模の造船用ドックを有し、戦時において計画された戦時標準船建造で1A型9隻、2A型35隻という大量建造を引き受けている。この規模の量産が可能だった造船所は三菱長崎、三菱神戸、三井玉野、川崎神戸くらいになる。造船規模が落ちると三菱横浜、三菱広島、播磨相生、東京石川島がある。
しかし、この世界での川南工業香焼島造船所は明らかに異なる規模であった。現代における三菱長崎香焼島と同じ規模の造船ドックを有しているのだ。そのうえで、隣接する対岸の深堀に少し小さいが同様に量産性に優れた乾ドックを建造しているというのだから驚きである。
シベリア出兵が成功し沿海州確保によって正統ロシア帝国が成立したことで日本海における海運の隆盛へと繋がり、満州事変によって日本が満州を抑えたことで日本海航路だけでなく、門司-大連航路、下関-釜山航路の需要が増大したことは川南の先見の明を示すものであったと言える。
25年買収時の既存施設を活かしつつ、山の切り崩しと埋め立てで新設施設の建設工事を並行して行った結果、28年には80万重量トン規模のドックが完成し、それとは別個に既存施設の拡幅が29年には完成、10万重量トン規模のドックが2基、1万重量トン規模が4基となっていたのだ。設備だけを見れば国内有数規模となっているが、軍艦建造の力に関しては新興企業であるがゆえに未知数と言わざるを得ない。
「三菱長崎も川南工業の大規模船渠には警戒しているらしく、下関に川南香焼と同じ水準の大規模施設を建設しているが、それも1932年までには完成するだろう。それと、鉄製船の建造経験がないが、今治周辺や尾道周辺の中小造船企業が商工省の助成で経営統合と合併する方向であるらしい。恐らく、これは内航船向けのものだろう」
平賀譲はさらっと重要な情報を口にする。
「商工省が助成? 海軍省の助成ではなく?」
「あぁそうだ。海軍……陸軍にとってもだが、軍部は外航船は徴用することなどがあるから重要だが、内航船にまで助成金を出すことはない。まぁ、戦時標準規格で内航船の性能に口を出すことはあってもな」
有坂総一郎の疑問に平賀は答える。
「ふむ……どうやら商工省は鉄道省と全面対決をする腹のようだな。なるほど、確かにその方針は間違いではないだろうな」
東條英機はある事実に気付いたのであった。
「船舶輸送は鉄道輸送とは比べ物にならないほど大量の荷物を一度に運べる。それこそ内航貨物船は1隻で2400トン石炭輸送列車(※実質輸送重量1600トン)3本分くらいは一度に運べてしまうからな。しかも、コンテナというのは海上輸送するのにも都合が良い形態だ。そもそも、コンテナは海上輸送も計算に入れているわけだからな。港湾設備も対応しつつある今、岸がそれに目を付けても不思議ではないだろうな」




