日本版我が闘争発刊
皇紀2583年5月10日 帝都東京
シベリア情勢が一気に動き出した5月であったが、鳥取政府が機能し始めた矢先の9日に北一輝による「日本改造法案大綱」が刊行された。
これによると、言論の自由、基本的人権尊重、華族制廃止(貴族院も廃止)と言った、日本国憲法にも記されている理念や理屈が書かれ、農地改革、普通選挙、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)と言った大正日本の社会的問題にも触れ、財閥解体、労働者の権利確保と社会主義的な主張も含まれているが、労働争議とストライキの禁止という相矛盾する内容も書かれていた。
そして、対外政策としてオーストラリアとシベリアを戦争によって獲得することなどを求めていたるなど非常に過激な内容である。
また、北の言うところの「国民の天皇」への移行と皇室財産削減という事実上の象徴天皇制とも言うべきプランも示されていたのである。
「こりゃ、日本版マインカンプそのものだな……」
有坂重工業社長という隠れ蓑で歴史改変を画策する有坂総一郎はこれを一読してそう評した。
この日、総一郎は久々に自宅にてゆっくりと寛いでいたのだが、さりとてダラダラしていられない性分になってしまったのか、それとも歴史に対する背負うものの重さ故か、休めるときであっても情報収集を怠ることが出来なくなっていた。
「マインカンプ? ヒトラーの我が闘争だったかしら?」
隣でお茶を淹れてくれている妻の結奈が興味を持ったらしい。
「あぁ、まったく同じものじゃないんだが、まぁ、国民へ宛てた行動指針、行動方針という意味では同じだね……妄想の類だよ」
「でも、妄想の類だと切って捨てている割には……旦那様の眉間のしわが目立ちますわね」
どうも顔に出ていたらしい。
「結奈はこれが2・26事件の原因だと知っているのかい?」
「いいえ、初めて聞いたわね。歴史の教科書にはそんなもの書かれていないし、授業でも触れていないもの……」
「まぁ、そうだろうね……。普通は暴走した軍部、右翼、国粋主義が引き起こしたクーデター騒ぎだと教えているからね……でも、本質はそこじゃないんだよ……」
「じゃあ、なにかしら?」
結奈は暇つぶしとしては興が乗ったらしくぐいぐいと来た。
「皇道派ってのは、皇道派の行動ってのは……他人の意志を自分の考えや主張だと勘違いした連中なんだよ……そう……北一輝の様な過激派や真崎、荒木みたいな権力志向のロクデナシの尖兵としてね……」
「それじゃ、彼らの主張していた昭和維新だの、東北の救済だのっていうのは?」
「北や真崎などが自分たちを正義だと主張するための方便、大義名分に過ぎないよ……連中が仮に権力を握っても……経済感覚まるでなしなんだから北朝鮮みたいに失敗国家になるだけさ……それこそ東北の身売りが全国規模になってみんな揃って不幸になりましょうって話だよ」
総一郎は心底侮蔑しきった表情で言い捨てた。
「でも、東北の窮状は事実でしょう? 昭和戦前不況の惨状は嘘じゃないのよね?」
「あぁ、もちろん。あれは事実だろうね。冷夏も重なって餓死者が出ているとも……」
「なら、過激派の言うことに心が傾くのは心情としては理解出来るわね……賛同はしたくないけれど」
「まぁ、そうだね。彼らがそれを実行出来るならば、それでも救いはあるが、担いでいる神輿が無能なのではね……そもそも精神論がひどくなったのは荒木が後年文部大臣になってからだ。全部、繋がっているんだよ……」
結奈は理解した。夫である総一郎が眉間にしわを寄せて苦しそうな表情をしている理由が……。
「歴史のイベントはけっして単独の出来事じゃなく、繋がっている……ということなのね」
「あぁ、そうだよ。仮に北一輝をここで何らかの理由で殺害もしくは逮捕拘禁しても最早意味はない。この本を発禁することも難しいな……明確に社会主義や共産主義にかぶれているというわけでもないから、検閲を通過出来るし、実際に通過しているからね……今更発禁などには出来ないだろう」
「ということは……皇道派の成立と2・26事件の発生フラグが立ったと理解すればよいのかしら?」
「あぁ、フラグは立ったね……まぁ、阻止もしなかったけれども……」
史実においてはこの書物が青年将校や皇道派の精神的支柱となり、2・26事件を起こす切っ掛けとなったが、果たしてこの世界では如何に……。




