川南工業
皇紀2590年 6月10日 帝都東京 市ヶ谷
大角岑生というジョーカーが帝国海軍に存在することは東條-有坂枢軸にとって海軍がどう動くかを判断する意味で非常に厄介な状態であることを再認識させられていた。
阿賀野型軽巡洋艦というMEKOシステムが持ち込まれたことで帝国海軍は艦隊殴り込み、艦隊防空の両面で強力なカードを有したことになる。それが未だ伏せられた存在であってもだ。
切り札となり得る艦艇が存在すること、軍縮会議が吹っ飛んだことで海軍休日は事実上終了した今、日米は補助艦艇の量産という方針に舵を切ることが可能となったことで、どちらが先に手を出すかという状態だと考えてよい。
特に日英関係が良好である現在、日本側は大英帝国が補助艦艇で一強状態にあることはそれ程問題にならないが、アメリカ合衆国にとっては一方的に不利な状態へと進んでいたのだ。
20年代は総じて経済が好調であったこともあり軍備強化に予算を注ぎ込む必要もなく、また、ワシントン軍縮会議の成功で列強の軍拡を抑え込んだことで補助艦艇も含んだ軍備管理にそこまでシビアになる必要はなかったのだ。特に日本側が一方的な軍縮に踏み切ったことで対日優勢が決定的となったせいもある。
しかし、アメリカが惰眠を貪っていた数年で大英帝国は再びその力を付けていたのだ。重巡洋艦の量産、そしてジュネーヴ軍縮会議によって超巡洋艦の建造の示唆と実行……これによって主力艦たる戦艦は兎も角、補助艦艇の数において圧倒的な劣勢となってしまったのだ。そして世界恐慌とロンドン軍縮会議の事実上の破綻。
アメリカは岐路に立っていた。大英帝国同様に建造枠目一杯に巡洋艦建造を行うか、それとも経済政策に注力するか……。
共和党政権は従来通りの経済政策「恐慌など一時的なもの、自然と収束し再び景気は回復する」という方針のままでいる。これは大規模な財政出動を行うことを否定しているものであり、海軍増強という財政出動をも縛ることであった。
確かに軍拡は景気回復へのカンフル剤にはなるのではあるが、造船・重工業がメインであり、全国規模の景気回復や雇用創出には至らない。だからこそアメリカは軍拡への道を踏み切れなかった。
しかし、大日本帝国は違ったのだ。
弾丸列車、列島改造によって景気は継続的に良く、北鮮の鉱山開発、満州の油田開発、日本海の内海化による日本海海運の活況という追い風が吹いている為、史実とは異なり南北アメリカへの移住組が本国への帰還を始めているくらいだ。
海運需要が逼迫し、各地の製鉄所もフル操業となり、各地の民間造船所も貨物船やタンカーの建造が続いている。無論、これには帝国政府及び海軍省から補助金が交付され、海軍省の望む要目を満たす場合は建造費用の3割まで補助金を活用出来る制度を打ち出していたのだ。
尤も、これは海軍省の予算というよりは商工省によって引き出された予算であり、内国経済を牽引する鉄道省への反撃の狼煙でもあった。経済を管轄するのは商工省であるという彼らの自尊心から旗振り役の奪還を目指したものだとも言えた。
とは言っても、商工省が単体で動くよりも海軍省と組んで造船業や製鉄業への監督権を行使する方が先々のことを考えても有利であると考えていた節は見え隠れしていた。後々、軍部と鉄の分捕り合戦になりかねないことを考えると鉄の分配の元締め役を商工省が手に入れることの利益は大きかったからだ。
商工省は鉄を得て、海軍省は金を得た。そして民間企業は利益を得た。まさに見事な利益分配だった。その裏には岸信介の暗躍があったのは間違いなかった。
「いつから海軍はこれを建造するつもりだろうか?」
東條英機は平賀譲に尋ねる。
「今年の秋から順次建造を開始するが……まずは8隻だな。海軍省は商工省と談合して予算を確保している。民間船台が秋頃に空くことを見計らって各企業に予約枠を入れさせて、三菱長崎には2隻、神戸川崎には2隻、長崎川南2隻、浦賀2隻と宛がわれている。先日、長崎川南の香焼島の船渠を見たがあれは壮観だったな……幅広の船渠に4隻同時に建造しているそれはまさに理想の造船風景だった」
有坂総一郎は違和感を感じた。
「4隻同時って……最低でも幅100m、長さ500mくらいありそうですが……」
「あぁ、それくらいあったな。山を崩して平地を整地して海を埋め立てて造成したという……対岸の深堀にも規模は小さいが幅80m、長さ300mくらいの船渠を造成していたな……アレは造船で中島飛行機みたいなことを企んでいたんだろうか?」




