転生者の憂鬱
皇紀2590年 6月10日 帝都東京 市ヶ谷
有坂総一郎はある事実に気付いてしまった。
この世界は歴史の修正力によって史実ベースの一大事件が発生するようにその世界システムが働いているが、それだとて修正しきれない部分が目立ってきたということだ。
最初の分岐点はバーデン・バーデンの破談と原敬暗殺の阻止であった。
東條英機はドイツ駐在中に覚醒し、自身が前世の記憶を持っていることに気付くと前世総理大臣として戦争指導をした際の苦い経験をもとにバーデン・バーデンの密約を破綻させることを決意し、これを行う。結果としては破談となったが、これによって永田鉄山との関係に亀裂が入り、統制派の芽を摘むこととなった。
転生した直後の総一郎は原敬総理大臣の暗殺が間近であることを考え、彼の命を救うことで恩を売り、政界への接近を図ることを計画、これによって立憲政友会に大きな貸しと人脈を作ることが出来、政商への道を歩み始めた。
第二の分岐点はワシントン、ジュネーヴ、ロンドン軍縮会議であった。
大角岑生海軍次官(当時)が画策し、東郷平八郎元帥を抱き込み扶桑型2隻の廃艦と引き換えに陸奥の保有を認めさせた上で一方的な建艦自粛と対米7割論すら放棄したそれによって世界は明らかに対日融和へと傾いた。そして英米間の不和を産み出したのだ。
特に欧州列強の日本への態度が軟化したことは後に発生する支那動乱に大きく影響し、日欧の外交関係に大きく寄与したのである。
続くジュネーヴ軍縮会議ではイギリスが重巡洋艦を上回る超巡洋艦の建造を示唆したことで1隻当たり最大15000トンというゆるゆるの枠になった。これによって最大15万トン(日米はさらに追加分を得る)という保有枠が決定された。
ロンドン軍縮会議は各国が旧式艦を準列強に売却するという手段で建造枠を手に入れるという手段を取り、戦艦の拡散を招いた。そして、新型艦は35000トン、14インチ10門でまとまりかけた条約案も日伊の戦艦交換協定で台無しになったことで仕切り直しという格好になった。
第三の分岐点はシベリア出兵の成功であった。
有坂重工業によって献納された多数の自動小銃と機関短銃、全国から搔き集められた機関銃と予備武装の投入によって文字通りの物量作戦によって形勢が逆転、真崎甚三郎少将(当時)の独断専行による奇襲・強襲もありハバロフスクが陥落したこともあり、最終的に勝利を収めることが出来た。これによって極東共和国は崩壊、旧極東共和国領とソビエト連邦領内における占領地の拡大を行い、沿海州一体とアムール川流域の確保を行った。同時に北樺太の併合を実施、オハ油田(現:北斗油田)の確保によって国内産油量を劇的に増やすことに成功したのである。
第四の分岐点はヘルマン・ゲーリングが重傷を負わずにモルヒネ中毒に陥っていないことであった。
彼が健在であることでナチ党におけるナンバーツーの立場を確保したことでドイツ政界におけるナチ党の浸透は史実以上に進んでいたのだ。財界や貴族、軍人の受けが良く、ヒンデンブルク大統領との関係もあり、帝政復古派の一員という立場にあることからその権力への道程は史実よりも遥かにハードルが低くなったのだ。
第五の分岐点は列島改造によって弾丸列車構想と標準軌への改軌という物流革命だ。
総一郎は立憲政友会の人脈と鉄道省、南満州鉄道を糾合し、帝国議会において列島改造を主張し、強引にねじ伏せることでこれを推し進めた。後年、鉄道省の私物化という悪名が広がることとなるが、それによって産業の基盤と物流の革命的な変化が起きたことでその悪名は返上されることとなる。
第六の分岐点は統帥権干犯問題と幣原外交との決別であった。
バーデン・バーデンの密約によって統帥権干犯の芽が摘まれたが、史実通りに犬養毅、鳩山一郎などの不見識な政治家たちによって加藤高明内閣が批判された際に財部彪海軍大臣によってその論理を否定され、三木武吉議員のヤジとその後の緊急動議によって鳩山、犬養らが議場を退場させられたことで始まった統帥権議会だ。
この議会におけるやりとり、そして新聞報道において完全にこれを封殺したことで統帥権干犯の芽は政治的に摘むことに成功したのである。
そして、統帥権議会とのその原因となった加藤声明の発案者である幣原喜重郎男爵は内閣改造によって外務大臣から外され、代わりに東洋のセシル・ローズと称される森恪が外務大臣に就任し、積極外交へと外交政策が転換されたのであった。
第七の分岐点は支那動乱であった。
蒋介石の北伐とタングステン鉱床の確保によって始まった支那動乱はそのまま大陸における各勢力の抗争へと発展していった。
蒋の北伐に日英仏は一致して対抗するとともに南シナ海の封鎖を行うことでドイツの支那への加担をやめさせることで支那の孤立化を推し進めた。これは支那における各勢力が列強勢力への反感を強め、南京や上海への攻撃を行わせ、南京事件へと発展、これによって欧州列強は権益保護を理由に支那大陸への出兵を進めていく。
蒋の北伐の再開による北洋政府との戦闘再開、それに伴う山東半島への北伐軍接近において日欧連合軍は共同戦線でこれに対峙するが、石原莞爾率いる教導飛行団による殲滅空襲によってこれを撃退すると日本の名声が欧州に轟く。
そして、最後は満州事変だ。史実では31年に始まったそれだが、28年の張作霖爆殺とともに始まった。陸軍と関東軍は事前に準備を進めており、張軍閥の満州からの排除を狙っていたが、総一郎が意図的な情報漏洩によってコミンテルンを利用して張を爆殺、それを契機に日本側は国境線を超え満州全域を瞬く間に制圧し、その後日英密約によって満州における石油権益の分配で欧州列強を抱き込んだ形で満州領有を認めさせたのである。
そして29年……。この年はリットン調査団による満州問題解決以外は大きな変化も一大事件もないまま秋に至るが、歴史の修正力はここで抵抗を示して世界恐慌を引き起こした。だが、その抵抗もむなしかった。30年に入ると歴史を動かす当事者たちは再び歴史の歯車を狂わせるように動き出す。
「これは……バタフライ効果ってレベルじゃないな……このままだと早期開戦すらあり得る……いや、そもそも航空主兵論の出てくる幕がなくなる……大和型戦艦が超戦艦ではなく、普通の戦艦になってしまう……」




