大森・今村論争と東條論文
皇紀2583年3月 帝都東京
東條論文が提出される以前、東京帝国大学で地震学を研究する二人の著名な学者が自論をぶつけ合い壮絶な論争を繰り広げていた。
時に明治38年(1905年)のことである。
当時、新進の学者であった今村明恒助教授は、地震の研究の結果を公表したのである。
「今後50年以内に関東地方で大地震が間違いなく発生する。その際に最も恐ろしいのは火災であり、今のままでは20万人の市民が犠牲になる大災害になる!」
彼の主張に世論は冷たくあしらい、「法螺吹き今村」と嘲った。
世論が彼の主張を正しく受け止めなかったのは理由があった。
「今村君の説は突拍子もないものであり、根拠などない、世情を騒がすなどとんでもない!」
今村の主張を退ける様に彼と同じ地震学を専門とする学者である大森房吉教授がマスコミに発表したのである。
大森は悪意があって今村の主張を蔑ろにしたのではなかったが、今村の主張が唐突なものであり、世情を混乱させ社会問題となっていたことから、沈静化するために打ち消す発表を行ったのである。
そして今村は雌伏の時を過ごす。
だが、10数年経った大正11年(1922年)、今村の主張と同じく帝都の危機を警告する東條論文が発表された。元々は地震災害を主題としたものではなく、戦時における空襲などによる火災発生を想定したものであり、陸軍省向けのものであったのだが、どう巡ったのか東京市へその論文と付属資料が送られ、東京市長後藤新平や市幹部が驚愕、東京帝大へそれが回ってきたのだ。
本来、火災であり、地震とは関係ないものであったが、以前に同じ危惧をしていたことを東京帝大の教授陣が思い出したこともあり、その検証会議に今村も呼ばれたのであった。
「今村君、以前、君の主張していた火災が帝都を呑み込み焦土と化すというのとこれは……」
建築学を専門とする教授が今村に尋ねた。
今村は以前主張した時の資料を持参していた。それを東條論文資料と並べて言った。
「全く同じものです。ただ、東條少佐のこれはあくまで軍事的見地からの想定であるので、多少の違いはありますが……被害想定は一致します」
「つまり、帝都はこれほど火に弱いのか?」
「ええ、当然です……江戸時代の幾度かの大地震と大火災を考えてみればお解りでしょう……木造家屋は復興するには都合が良いことが特徴であり、それは災害復興の速さと江戸の発展が証明するところです」
今村は木造建築物の多い帝都の状況と江戸の盛衰を比較して述べた。
「だが、今は鉄骨造りや煉瓦造りの建造物が多いではないか?」
「多いでしょうが、それほど変わりませんよ。特に下町……本所などどうでしょうか? あの辺りで火災が発生すれば、あっという間に逃げ道がなくなります……なにせ、建物は木造で、東西をつなぐ橋も木造……」
「確かに……」
今村の指摘に教授陣は皆一様に黙りこくった。
数日に及んだ検討の結果が出たところで、件の東條少佐が今度は地震災害をテーマにした論文を発表したのであった。そしてこれは最初から陸軍を相手とせず、東京市を相手にしたものであった。
そこにあったのは今村論を事実上肯定するものであり、先般発生した龍ヶ崎地震を基にしたものであり、より切迫したものであった。
ここに今村の東京帝大における信頼度は大きく向上したのであった。
「東條とかいう少佐は面白い……堅物脳筋どもだと思っていた陸軍軍人にも頭が柔軟な奴がいるものだな……」
今村はそう評したのであるが、たまたま検証会議に出席していた長岡半太郎教授が今村の言葉を聞き、興味を持った。
「最近の軍人は科学に目を向けるものがおるのだな……良いことだな。そういう人物には兵器にとっても重要な金属材料に理解を示すのだろうか? だったら、弟子の本多光太郎を紹介してやりたいがな……」
「さて、どうでしょう? この論文は先にも述べましたが、軍事的に考えたもので、地震のそれは誰かが入れ知恵したのではないかと……どうせ同じ被害が見込まれますからね」
長岡は今村の少しひねくれた物言いにおいおいと思った。
「だが、良く検証している。仮説としても十分に説得力があるのだから、褒めてやるべきだろう」
「そうですね……いずれにしても帝都を襲うであろう地震への備えをする好機です……」
「そうだな……」
彼らの会話から5ヶ月……。年が明けて大正12年3月。
12月上旬に発生した島原地震の報告がようやくまとまり、東京帝大臨時震災対策部会の元に届いたのである。
彼らが目にした資料によると島原地震で発生した火災は東條論文や今村論文を裏付けるかのような被害を発生させていた。
そして、東京帝大臨時震災対策部会は、東條論文に基づく帝都被災予想を大筋で正しいものと判定し、帝国政府と帝国議会へ早急なる対策を要請することとなった。




