女神の名を持つ才媛<2>
皇紀2590年 2月11日 アメリカ合衆国 ニューヨーク
「はぁ……」
この日何度目かの溜息を吐いた彼女は帝都東京から届いた本社命令書のとある個所を見つめていた。
「このままではいけない……いつかこのトリックは気付かれる……彼自身が気付かなくても彼女が気付くだろう……その時、彼女はどう言ってくるだろう……」
1年前の今日、すべてはそこが始まりだった。黒服の男たちが協力を求めてやってきたあの日から彼女の暗黒の日々は始まったのだ。
あの日程心揺さぶられた日はないと彼女は思っていた。
――彼と彼の国を守るためという話に乗ってしまった、そして未だそれを拒絶出来ずに彼らに協力し続け本社から送られてくる指示の内容を横流ししている……。
だが、あの日残された資料には彼女の心が折れて黒服たちに屈したものがあった。
――日本が……彼が戦争準備を主導している……それを食い止めるために動けるのは私だけ……。だけど……本当にこれが正しいことなのか……弁護士としての自分の勘が彼は黒であると告げている……これは間違いない。……でも……。
彼女の心を苦しめるもの……それは満州事変を主導し、支那大陸への"侵略"を推し進める大日本帝国の中枢に彼の名がちらつくことである。
黒服から渡された資料には大日本帝国の昨今の軍備刷新という名の陸軍戦力の拡充状況だった。そして、その参画企業に必ず存在する有坂重工業の名だった。そして、軍の主要人物との交流関係だった。
――満州の油田については私は一切聞いていなかったのにあんなに簡単に見つかるというのはおかしい……あらかじめ入念な準備と情報管制を行っていたとしか思えない……それだけでなく、既成事実化の速度はそれを示している……。
今まで届いた本社からの指示を調べ直す。ファイルをキャビネットから取り出し、関係する事案を片っ端からメモを取る。
採掘関係、精製設備、電気技術関係、航空機関係、鉄鋼鉱工業関係、そして彼と出会う切っ掛けだった自動車関係……。それらは近代国家、近代産業の根幹だ。だが、それらが組合わさった先は……。
彼女の中で一本の線が繋がっていく……。
――彼は間違いなく戦争に向けての準備を進めている。それは間違いなく、このアメリカ合衆国を敵としてのものだ。だから油田の確保を急いでいた。そして、日本はイギリスにも権益を渡すことで合衆国が手を出しにくくしている……。これにはきっと彼の策謀に違いない。
彼女の考えは纏まっていく。そして、デスクの受話器に手を伸ばす。
「……私よ、ええ、悪いのだけれど、ここ数年の本社CEOの海外渡航先と会談した人物のリストを調べて欲しいの。そう、大至急よ……ええ、新規取引先の開拓に必要なの……そう、ええ、任せたわ」
彼女は自身の感じたものに従うことにしたのだった。そこにあったのは誰かの意思で敬愛する存在に叛旗を翻すものではなかった。自身の信念で彼を守るため、そして止めるために動くというものだった。
――きっとあなたを止めるわ。総一郎……私、アルテミスはあなたを守るために……。




