ルール占領
皇紀2583年1月~8月 欧州情勢
この年は年始にフランス、ベルギー両国がルール工業地帯へ進駐し、保障占領に反発するイギリス、ドイツ両国の陣営が激しく対立し、そのまま半年が過ぎた。
概ね史実通りに事態は推移し、ドイツはハイパーインフレに陥り、年初の1ドル=1万8000マルクであった為替レートは8月に入ると1ドル=462万マルクにまで達した。
この間、ドイツ政府はルール地方の企業や労働者への不服従抵抗、ゼネラルストライキなどを呼び掛け、企業や労働者もこれに応えルール経済は完全に麻痺し、フランス、ベルギーは占領目的である賠償金支払い履行と現物供与を達することが出来なくなっていた。
この事態にフランス、ベルギー両国が手をこまねいていたわけではなかった。現地のドイツ人労働者を追放し、自国及びスイスから労働者を呼び込み、それによって石炭採掘を推し進めることで現物賠償をなさんとしていた。
しかし、両国のこの行動はドイツ国家とドイツ人の激しい拒絶反応を呼び込むだけでなく、同じ連合国であるイギリスの激しい反発を招き、英仏協商の破棄にまで踏み込む事態となった。
そして、しびれを切らしたイギリス首相ロイド・ジョージは遂に激しい口調で両国を非難するに至った。
「非武装の国に対する軍事侵略であり、正当化されず、無益であることがいずれ判明する」
だが、この声明にフランス国家とフランス国民は猛反発し、新聞を用いてルール占領は正当な権利であると主張し、国内世論を煽る結果を招いたに過ぎなかった。
事ここに至るとイギリスの調停では既に事態の解決が出来なくなっていたのである。
イギリスはドイツの賠償が事実上困難であり、中立の立場で査定をする機関設立が必要と考えていたが、賠償金不払いで困っていたのは当のイギリスでもあったのだ。
つまり、イギリスはドイツの肩を持ってフランス、ベルギー両国を非難していたわけではなく、単純に、自国が受け取れる分が受け取れない事態であるのにも関わらず、フランス、ベルギー両国が自分の取り分を強引に手に入れようとした事実に反発していただけなのである。
だが、そんなことを表面上は一切見せることなく、ドイツに恩を売る形で常にドイツの不履行を不可抗力と援護し続けていた。
しかし、事態は急転する……。
8月に入り、ドイツの内閣が崩壊、グスタフ・シュトレーゼマンが組閣したのである。この大連立内閣はルール闘争への公的財政支援はもはや限界であると考え、公式には継続を宣言していたが、水面下では闘争終了へと舵を切ったのである。
だが、これが思いもよらぬ方向へドイツ国家の未来を歩ませることとなるのであった。