若槻演説という名のプロパガンダ
皇紀2590年 2月9日 大英帝国 ロンドン
大日本帝国全権団はこの日、ロンドンの英国放送局から世界初の国際中継放送を実施した。
「私は大日本帝国全権、男爵若槻禮次郎である。ここロンドンで軍縮会議が開催されてから一ヶ月が経とうとするが未だに妥結の道筋は明らかにならず暗夜行路の様相を呈している。まさに欧州大戦の塹壕戦が如くものである。一向に自説を曲げず本義を忘れたかのような振る舞いを各国が演じておるがためであるのは明々白々」
これは明らかに政治的なメッセージを世界規模で放送することで国際的な世論を味方に付けようという謀略だった。
言外にアメリカ合衆国がジュネーヴ軍縮会議で約束した戦艦廃棄を実施しないこと、各国が協調した軍備の均衡を望まず相手に制限を課し優位になろうとしようとする意志を批判しているのだ。
「我が帝国も不本意ではあるが、各国の頑なな態度に合わせ国益に沿った主張をしてはいるが、各国が規律と協調の下に適切な戦力均衡に同意するのであれば保留している巡洋艦の建造枠の削減も考えておる次第である。だが、それとて、我が帝国のみが実行したとて太平洋を挟んだ合衆国に利するだけで何ら我が帝国臣民に利益とはならない」
ここにアメリカがワシントン軍縮会議と同様に我儘な理由で自国に都合が良い主張を繰り返していると印象付けるためのものであり、実際に実行するとは一言も言っていないが、軍縮条約の本義に沿った行動を行う余地を示し対立構図を明確にしていた。
「また、英領インドにおける叛乱には深く同情する。植民地や海外領土の統治には大きな負担があり、一度統治が緩むと燎原の火が如く、激しく燃え盛るものであり、それゆえに目に見える形での威信は必須だと言えるが、それとて周辺国に無用な警戒を生むのでは要らぬ苦労を背負い込むことと同様である」
大英帝国に一定の理解を示す言葉を付け加えつつも、自説に拘って敵の戦力を増やすことは慎むべきと忠告を忘れない。
「我が帝国は友邦が困った際には手を差し伸べることを厭わない。それは友邦国民諸君が良く知っていることであろう。それはこれからも同様であると約する」
これは大英帝国に対する一種の脅迫だ。支那動乱で一緒に戦った仲であり、後方基地であるそれは継続するし、密約を守る限りは歩みを共にするが、破った場合は……。
「欧州大陸においても深く憂慮する。現在、合衆国発の大恐慌の嵐が欧州を吹き荒れているが、これの余波を受けた国には深い同情をする。特にドイツは戦勝国の振る舞いに左右され、今は資本の引き上げに見舞われ失業者が後絶たないと聞く。まさに生き地獄であると……。その中で、周辺の有力国がいずれも軍拡に走っている現状では内外に抱える不安は想像に難くない」
フランスによって圧力が掛けられているドイツに同情していると見せかけつつもフランスの軍拡傾向を批判している。無論、それはダンツィヒ自由市を私物化しつつあるポーランド、トランシルヴァニアにおけるルーマニアの不法行為も批判の対象である。
「特に東欧では家主の居なくなった家に居直る強盗紛いの真似をする国家が後絶たない。これは見過ごすことが出来ない。我が帝国はこれらを断じて認めず、例え戦勝国であろうとその様な行為を見逃すつもりはない」
若槻が東欧の問題に口を出したには理由があった。
欧州大戦の結果、東欧の国境線は随分変わった。オーストリア=ハンガリー帝国の版図はズタズタに切り裂かれ、スロベニア・クロアチア・ボスニアはセルビア、つまりユーゴスラヴィアに併合され、チェコスロヴァキアは独立し、ハンガリーからトランシルヴァニアがルーマニアに割譲された。また、ガリツィアもポーランドに、南チロルもイタリアに割譲させられたのだった。
そしてハプスブルク家のハンガリー王位復帰もチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ルーマニアによって武力で介入されたことで、ハンガリーの国体が非常に不安定かつ弱体化させられていたのだ。
そしてトランシルヴァニアにおいては多数派住民ハンガリー系のマジャール人への迫害が少数派住民のルーマニア人によって行われていた。これにはルーマニア国家の関与もあったのだ。
これらが後にアドルフ・ヒトラーによる裁定に結びついて東欧におけるドイツの指導力影響力を増やしたことを知っている有坂総一郎と有坂結奈によって東欧の火薬庫と若槻に入れ知恵をしたことからここで取り上げられたのである。
総一郎らの狙いはハンガリーにハプスブルク家を復帰させ、そしてオーストリアにおける帝政復古を行うことで多民族が混在する中東欧の安定した国家を成立させ、第三勢力として誕生させる狙いだ。
実際、ハンガリーには王党派が一定の勢力を有しており、基本的にはハプスブルク家の復帰は容易である。オーストリアにも帝政復古派は一定数存在することからこの勢力に資金提供し、世論誘導することで中東欧のファシズム体制への傾倒を防ぐことを狙っているのだ。その布石だ。
そのためにポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ルーマニアはいわば悪役として一緒に並べられることで総一郎らの狙いを隠す役割を担うのである。
「我が帝国は公正かつ公平な秩序ある世界の継続を願っている。一部の勝者や強者が自分たちの都合だけを押し付けることを望んではいない。但し、我が帝国に不利益をもたらす場合はこの限りではない。それは満州の事例をもって示すのが適当であろう」
自己正当化とともに介入をも辞さずという姿勢を示すことで史実とは異なる国際社会への関与を打ち出したことによる各国の反応は様々だった。




