インド国民会議の独立宣言
皇紀2590年 2月4日 大英帝国 ロンドン
ロンドン軍縮会議が開催され、各国が一致しない利害をお互いに求めやり取りを行っている最中、英領インド帝国において激震が走った。26日にインド国民会議が独立宣言を行ったのだ。
マハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーらインド国民会議は26日に独立宣言を決議し、国民会議は市民的不服従を勧める責任があると発表した。この運動はまたヒンドゥー教徒とイスラム教徒を一つにまとめるために、宗教的な色彩を排除することが必要であり、宗教の垣根を越えてのインド独立を求めるものであったのだ。
同時に独立への道程として、塩専売制度を激しく非難し、ガンディーは塩の専売制度を非暴力による政治抗議の中心点とした。
これには理由があった。
インドにおけるイギリスの塩の専売制度はイギリス政府(英領インド帝国)以外で塩を作ったり売ったりする者は法によって裁かれ、刑に処されるものであった。
塩は海岸地域で簡単に製造が可能であったが、インド人は金を支払うことで得るしかなかった。ガンディーは地域、階層、宗教、人種的な境界を越えて訴えるという重要な基準に適ったことで、対英闘争に最も適切な手段であるとしてこれを槍玉に挙げたのである。
誰もが塩を必要とし、どの小作人もどの貴族階級も日常生活において塩がどれだけ重要か認識していたので、インド人に対し不公平なものである塩の専売制度に対する抗議は巧妙な選択だった。
また塩の専売制度に対する抗議は良い選択だった。というのも同時に塩の専売制度に対する抗議が大衆を動かすのに十分な力を発揮しているからだった。
28日にはガンディーはインド総督府に赴き、インド総督であるアーウィン卿エドワード・フレデリック・リンドリー・ウッドに塩の専売制度の撤廃を要望する手紙を手交しようとしたが、総督府の衛兵に取り押さえられたことで実現出来なかった。
30日にガンディーはラジオ放送で全インドに対し、海岸部で自前の塩を作り、それを使う様に演説を行ったのだ。これがアーウィン卿の耳に入り、即時演説を中止させられ、その場で逮捕されたのだ。
この情報が英国本国政府にもたらされたことでマクドナルド政権は仰天したのである。
国民会議がなにやら結集していることは察知していたが、ここまで矢継ぎ早に行動に移るとは思っていなかったのだ。
そして、それから数日でガンディーの演説によって海岸部において密造塩が流通し始め、そのために正規塩が各地でうず高く積みあがるようになったのであった。
インド総督府はこれに対し、武装警官を動員し、密造塩の没収と生産停止を強制した。無論、従わなかった者はその場で拷問を受けるなど徹底して取り締まりを行ったのである。同時に国民会議の関係者や塩密造に関わった者を中心に1万人規模の民衆が投獄されたのであった。
これらの事態は英国本国政府にとって気の休まるものではなく、インド総督府へ相矛盾する指示が出されて当のインド総督アーウィン卿はそれの板挟みとなってしまった。だが、同時に彼はインド総督としての職務に邁進することを本国政府に通達し、法と秩序を守るために場合によっては大弾圧も辞さないと宣言したのであった。
大英帝国の富の源泉であるインドが不安定な状態になったことは結果としてロンドン軍縮会議の席上にも影響を与えてしまったのである。
そう、アーウィン卿が弾圧を決意したと同様に、本国政府も植民地統治を円滑に行うため、武力誇示のための視覚効果抜群の戦艦の充足は必須であると決意したのであった。




