1930年時点のソ連の国内情勢
皇紀2590年 1月1日 世界情勢
さて、今度はソ連に目を向けてみる。
ヨシフ・スターリンはライバルの追い落としと追放によって着実に権力の掌握を進めていた。彼の行動は実質的にはほぼ史実通りであった。だが、史実と異なる点があるとするとそれは極東シベリアについてであった。
シベリア出兵は各国が失敗だったと認め手を引いていく一方、大日本帝国のみは最後まで兵を退かず、有坂重工業の献納と量産によって銃火器の大量納品が行われたことで従来とは異なる戦闘が可能となり、結果、沿海州とその周辺からソ連赤軍とパルチザンを殲滅放逐することに成功したのであった。
緩衝国として成立した極東共和国は消滅し、代わりにロシア皇帝家の再登板による正統ロシア帝国が建国され、亡命ロシア人が再入植し大日本帝国や大英帝国の支援によって勃興しつつあったのだ。
正統ロシアの勃興の裏事情には明らかに有坂コンツェルンの意図が見え隠れしているが、この時代を生きる者たちにとっては不自然なものはなかった。新興企業が政商となり沿海州で一旗揚げているという見え方に過ぎなかっただろう。
だが、ハバロフスク~ウラジオストクには日本本土と同様の高規格標準軌による高速鉄道の建設が促進され、それは満州国境にまで延伸され、兵員輸送や物資輸送に大活躍しているが、それもこれも有坂コンツェルン・南満州鉄道・鉄道省による謀略によるものであった。鉄道網の構築はそのまま正統ロシアの物流システムの強化につながり、豊富な森林資源の活用や結氷するアムール川やオホーツク海などに代わる大動脈として機能していた。
正統ロシアの急成長は日英仏と亡命ロシア人の投資の結果であったが、これに面白くない思いをしていたがロシアを統治する赤い皇帝然とした男であった。そう、スターリンである。
レーニンが死に、また、権力闘争の過程で有力なライバルたちを次々と葬って権力基盤を強化しつつあったスターリンであった。
だが、彼にとって最大の問題は彼が主導したシベリア方面の解放戦争の失敗だった。同時に支那方面での介入・干渉にも失敗したことで彼の経歴に汚点を残すこととなったのだ。無論、表面上は責任を負い被せることで自身の責任を追及されないようにしてはいるが、軍部には未だ有力なライバルが存在し、ソ連共産党では体制が固まった彼であっても安易に気を許すわけにはいかない状況だった。
しかし、内政面では一定の成果を挙げつつあり、折よく発生したアメリカ発の大恐慌において列強との国力の差を埋める好機となった。
彼はこの機を逃すものかと28年から実施している五ヶ年計画をさらに強力に推進することを表明、同時に前倒しによって自動車生産、トラクター生産を推し進めることで農業の機械化と重化学工業の発展を目指した。
特にヴォルガ川・ドニエプル川のダム工事によるダム湖を使い黒海~河川~バルト海・白海へ航路を開設することで列強によって邪魔をされる海上航路や重量物の制限がある鉄道に代わる輸送手段として整備を大規模に推し進めることとなった。
この内陸航路の開設によってロシア平原に巨大な堀を作ったも同然となり、後にウラル方面への縦深陣地にも応用され、対独開戦後のソ連の工場疎開においてその真価を発揮することになるが、今はその秘められた能力に誰一人気付くことはなく、独裁者の意向による大規模な公共事業としか見られていなかった。
また、複数建設されたダムによって水力発電が行われるようになると豊富な電力によって内陸部の開発に大きく貢献し、ドニエプル川の事業ではキエフ・ハリコフ・ドニエツクが急速に工業化発展し、ヴォルガ川の事業によってスターリングラード・サマーラ・カザン・ウファ・ペルミ・ニジニーノヴゴロドの発展は目覚ましいものだった。特にニジニーノヴゴロドとペルミはモスクワとシベリア鉄道でつながっていることもあり、重点開発された。
スターリンにとって最大の誤算はこのヴォルガ・ウラル地域での開発の途中で発見された第二バクー油田だった。サマーラ近郊の地質調査を行っていた時に調査チームが偶然油田を発見したのであった。
本来、この地域における油田の発見は数年後のはずだが、沿海州近辺の失陥によって焦ったスターリンの強引な五ヶ年計画の推進によって発見が早まったのだった。
無論、この発見は大々的に発表出来るものだったが、彼は第二バクー油田と命名し、実際の場所とは異なるバクーの名を使うことでコーカサスにおいて新油田が発見されたと偽装し発表したのである。油田の存在を示しつつも場所を偽装することで外国勢力のスパイ活動を謀る意図であった。
こうして30年1月1日、国内的に第二バクー油田の本格的採掘を命じられ、ウラル地域の開発がより強力に推し進められるに至った。




