1930年時点の欧州列強各国の国内情勢
皇紀2590年 1月1日 世界情勢
史実と比べると海軍休日など見掛けでしかなく、各国ともに実質的な軍拡を継続していたということがわかるが、それでも世界は平和を希求し、列強は次なる戦争を抑止するための努力をしているというポーズを取り続けていた。
だが、29年10月のブラック・サーズデー以来の証券市場の混乱と暴落は各国経済に明らかな影響を与え、アメリカ経済と連動する中南米は深刻な状況となっていた。
欧州にも世界恐慌という名の死神はその大鎌で零細弱小な企業の命の灯を容赦なく刈り取って失業者を大量に生み出しつつあった。
政権交代したばかりの大英帝国マクドナルド政権はボールドウィン政権の置き土産である比類なき屈強な巡洋艦の建造推進と既存の巡洋艦の是正工事を中心とする公共事業の拡大によって需要と雇用を創出し、民需経済へのカンフル剤としようと本格的に動き出したが、年始からの開催が予定されているロンドン軍縮会議が彼らにとって足枷になりかねないと大英帝国海軍や造船メーカーから強い懸念が表明されていた。
ドイツは不安定な政治状況とアメリカ資本によって支配された経済界が重なり、有効打が打てずにいたのである。伸びつつあった自動車産業や鉄鋼産業も需要の喪失には手も出せず、また化学産業も影響を受け早くも業界再編の動きが出始めていた。それだけでなく、列強の賠償金支払いの督促がドイツ経済に大きく圧し掛かりハイパーインフレの兆候が出始めていた。それどころか、アメリカ資本は容赦なくドイツを見捨て資本の引き上げを行い、29年年末時点で銀行や有力企業が連鎖破綻する状況であった。
復興期におけるこの状況はドイツ国民にアメリカ(国家、国民、資本)への不信を生み、同時に容赦ない取り立てを再実行したフランスへの復讐心を駆り立てる一方だった。また、経済的に結びつきが強まりつつあったオーストリアにもその余波は及び、オーストリアからのフランス資本引き上げの噂が飛び交い、大手銀行クレジットが破綻するという事態にまで発展していた。
一方フランスは英米独とは異なり、当初世界恐慌の影響を受けていなかった。
大英帝国が金本位制へ旧平価による復帰を行ったのに対して、フランスは新平価で復帰したことで経常収支は黒字化し、また金為替本位制に否定的な立場から金の流入政策をとり、対外投資を引き上げ、経常収支の黒字を金で受け取ることを求めた。このフランスの金の吸収はとりわけロンドンの金準備への圧力となったからだ。彼らは豊富な金保有によって影響を受けない状態だった。だが、フランスにも不安定要素がないわけではなかった。
時期的に旧式戦艦の更新時期が来ており、ロンドン軍縮会議の結果次第では建造を開始する段取りであったが、対独関係悪化によって財源は東方の守りへ偏りつつあり、海軍予算はしわ寄せを受けていたのだ。また、新型戦車の開発や配備も同様に影響を受け、これも遅れ気味となっていたのだ。そこにイタリアの新戦艦建造計画とドイツの襲撃艦建造進捗による脅威が増したことで限られた予算配分に苦労することとなったのだ。
イタリアもまた世界恐慌の影響は限定的であった。ゼロではないが、そもそもイタリア経済界、証券市場は欧州大戦後から継続して混乱が続いておりアメリカでの株価暴落の影響が出ないほどの低迷ぶりであった。とは言え、全く影響がないわけではなく、一部企業の破綻はあり、これに対しムッソリーニ政権は産業の合理化、統制による統廃合を進めることで企業規模の拡大と財務体質の強化を実施した。また、ファシスト党一党独裁完成によって共産主義者が国外脱出したことでストライキなどが解消され国内経済への不穏分子は一掃され、公共事業を中心とした国土改造を強力に推し進めることが出来るようになっていたのだ。
また、新型戦艦の建造計画によって北部のいくつかの造船メーカーや重工業は総力を挙げてこれに参画し、同時にベネチア~トリエステで開業した高速鉄道のミラノ・トリノ方面への延伸を公共事業として開始したことで首相ベニート・ムッソリーニと国民経済大臣ジュゼッペ・ベッルッツォの目論見は概ね達した。北部の工業化の発展が進めばアペニン山脈を越えてローマやジェノバ、ラスペツィアに高速鉄道の延伸が可能となる。
ムッソリーニ政権は急成長を遂げる大日本帝国に鉄道官僚や鉄道会社を中心とする視察団を派遣し自国の国土改造に役立てようと考えていたのだ。28年度中に視察団が来日したが、彼らにとって誤算だったのは大日本帝国が鉄道省に強大な権限を有し、そこに土木機械やトラックなどを集中運用し機械化した鉄道建設を行っていたことだった。
これによって大日本帝国との違いを痛感させられたムッソリーニは土木機械の国産化を進めることを計画したがすぐにストップがかかった。彼らの自動車生産能力では実質的に不可能だったからだ。




