ブラック・サーズデー
皇紀2589年 10月24日 アメリカ合衆国 ニューヨーク
史実においてこの日起きた株式市場の大暴落”ブラックサーズデー”から始まる世界恐慌から世界は再び戦争への道を歩み始めたが、この世界でも同じ日に暴落が始まった。
史実同様に不動産価格の低落時期に来ていたアメリカ経済であったが、史実とは異なり海軍軍縮は事実上機能しておらず外交上の成果として各国政府の宣伝広告としてのみ役割を果たしていたこともあり、重工業・造船メーカーを中心に業績は悪くないものであり、軍需産業が経済を牽引していた。だが、逆に言えば軍需産業以外の産業は過剰在庫や市場の飽和によって業績が悪化しつつあり、株高によるバブル経済の様相を呈していたのだった。
如何に超国家アメリカと言えど、自国で消費出来る分を越えての過剰生産を行えばそれを捌ききれなくなるのは道理であり、同時に戦後復興によって欧州列強各国ともに工業生産は戦前の水準に戻りつつあった状況でもあったことがアメリカにとっては最悪の情勢だった。
だが、危機感を抱いていたアナリストは少数であり、大多数は軟着陸するであろうと甘い展望をしていた。
そして、この日、少数のアナリストや経済学者が危惧していた株価大暴落が発生、不動産価格の低迷により投機の対象として証券市場に資金が流入して株高状態であったそれに一撃を与えたのであった。これまでに膨れ上がった金融上の利益は一瞬にして雲散霧消し、彼らが築いてきたものが脆い砂上の楼閣でしかなかったことを思い知らせたのであった。
予兆はあった。
9月にダウ工業指数が史上最高値を記録した直後、下落が始まり最高値から20%程度落ち込んだ直後反発したことで安堵感が広がったのだが、それもつかの間10月半ばから再び下落傾向になり、21日の取引開始直後からその下げ幅は加速し始めていたのだ。
ダウ工業指数の不安定な動きを警戒し、銀行家などは水面下で動き出していたが、その動きが更なる不安感を強めたと言えるだろう。
そして24日、取引開始から暴落が始まり、銀行家たちは13時に証券取引所に集まり会合を持った。ここで市場のマインドを変え、以前の恐慌収束に用いた手法によって買い支えによって市場をコントロールすることで一致、銀行家たちは大手鉄鋼メーカーであるUSスチールの株を市場価格よりも高値で大量に購入する注文を行った。
これは史実と同様の動きであった。
この時、一部の銀行家は同時に経済の牽引役である軍需産業の株も大量購入する注文を出し、鉄鋼・軍需産業を中心に株価が反発したことでこの日の崩落を食い止めることに成功したのであった。
だが、それも一時しのぎでしかなかった。
週が明けて28日、投資家たちは24日の暴落による恐怖に慄いたことで手持ちの証券を現金化しようと売り注文が殺到する結果となり、ダウ工業指数も急落した。翌29日は更なる大規模な暴落が起きたことで完全にニューヨーク証券市場は壊滅的な打撃を受けた。
29日の暴落の引き金を引いたのは連邦政府や連邦議会からの風聞であったのだからその大混乱ぶりは想像に難くない。日本で言えば片岡蔵相の失言による恐慌発生をより大規模にした世界規模にまでしたものであると考えればわかりやすいだろう。
連邦政府、連邦議会からの風聞……それはホーリー・スムート関税法案だった。
元来、共和党政権は保護貿易経済政策を実施してきたが、その中でアメリカの富が蓄積され、同時に債務国から債権国へと脱皮をすることが出来た。結果、欧州経済はダメージを受け深刻な負担を受け入れることになった。
そして、審議中であったこの関税法案にハーバート・フーバー大統領が拒否権を発動せずに通過させるという噂が証券市場に流れたのである。これによって貿易関係企業の株価暴落の引き金を引き、結果、29日の取引は全面安どころではない全面大暴落となったのだ。
市場はその日だけで140億ドルを失い、1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった。




