トロツキーの国外追放
皇紀2589年 1月31日 大英帝国 ロンドン
日英秘密暫定協定によって開かれたロンドン協定が一応締結されたことで満州情勢は収束へと向かっていたが、そんな中、赤き凍土ロシアの地では一人の政治家が正式に国外追放となり、故国を後にしたのである。
彼の名はレフ・トロツキー。
27年の時点で彼はほぼ失脚していったと言って良いが、彼の復権を恐れるヨシフ・スターリンらに警戒されシベリアへと下向していたが、それでもなおスターリンにとっては安心出来ず、遂に国外追放となったのだ。
トロツキーとスターリン……二人の指導者は思想的対立によってその歩みを別にしたのであるが、前者は世界革命、後者は一国社会主義を唱え、現実的なスターリンとその支持者たちがソ連政界を固めたことでトロツキーは敗北したのであった。
史実において彼はトルコへ向かったのであるが、彼が向かった先はメキシコであった。史実であればトルコ、フランス、ノルウェー、メキシコと転々とするのであるが、彼は史実と異なり事あるごとにアメリカと対立する傾向にある欧州諸国に不信感を持ちアメリカの影響力が大きく、欧州諸国の影響力の少ないメキシコを選んだのであった。
有坂総一郎や東條英機にとってはそれ程影響するものではないと判断していたが、彼の思想は非常に危険であると判断もしていた。その彼が史実にない行動をとったことは彼らにとって衝撃的であった。
「スターリンに暗殺されるからと放置してよいのか悩ましいな」
東條は総一郎に正直なところを開陳する。
東條にとって誤算であることは総一郎にとっても同様であるが、この行動がどういう具合に影響してくるのか未知数なだけに総一郎も返答に窮した。
「継続してトロツキーの居場所は把握しつつトロツキストが帝国で跋扈しないように目を光らせるべきでしょうね……場合によってはスターリンに情報を流して始末させるか……」
「だが、そうなると大粛清にも影響せんか? 特にジューコフやトハチェフスキーが早期に始末されると北満戦線や蒙古における圧力が減る……場合によっては独ソ開戦となった時に……」
東條が大粛清に言及したその時だった。
「東條、有坂居るか? うわ、なんだ揃って不景気な顔して……」
大使館の会議室に入ってきたのは豊田貞次郎だった。豊田からすると二人の表情はまさに会社の経営が傾き潰れそうで頭を抱えている経営者の様だった。
「豊田さん……いや、なんでもありませんよ……世界革命論者が国外追放されて世界放浪の旅に出た……という話が入ってきたというだけですよ」
総一郎は豊田に差し支えのない範囲で答えた。
「あぁ、トロツキーか? そこまで気にする必要はないだろう? 権力闘争の負け組だろう。そこまで影響などないだろう?」
「逆ですよ……国外追放になったおかげでトロツキストが動きやすくなったということですよ。そんな危険分子が我が帝国に入り込んだら……」
豊田は不思議そうな顔をしていた。
「内地はこれまでにない好景気、どこも人手が足りず、給与はうなぎのぼり、そんなところにアカどもが付け入る隙なんて無いだろう? どっちかと言えば心配するなら朝鮮だろう……」
「まぁ、そうなんだが……」
「憲兵や警察は忙しくなるだろうが、問題はそこから世の中の不公正に不満を抱く様にならないかだ。そうでなくても軍人は安月給だ。民間との給与の格差で真っ赤に染まったりしたら……」
豊田はそこで気付いた……事態は切迫しかねないという事実に。
「折角確保した満州は真っ赤に燃え上がる……しかも、軍隊は上意下達……将校が赤く染まれば叛乱……兵が赤く染まればそれこそ革命だ……」
東條は頭を抱える様にしてそう呟く……2・26事件が起きる前、彼は関東軍憲兵司令官・関東局警務部長に就任、関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止し、2・26事件の直後は皇道派の不穏な行動を阻止、検挙したことで関東軍内部の混乱を収拾しているだけに彼の苦悩は現実のものとして相当な懸念があるのであった。
「奴の動きはスターリンの動きとともに警戒すべきだろう……この件、内務省と陸軍省に緊急電を打ち早急に手入れをするように手配せねばならんな……」
東條はそう言うと会議室を後にした。




