ロンドン協定<6>
皇紀2589年 1月12日 大英帝国 ロンドン
出鼻をくじかれ、そのうえで不逞朝鮮人による不始末を理由に満州での既成事実化を追求する口実を失った北京北洋政府はそれ以後口を挟む余地を失った。
だが、日英米は見解の隔たりと妥協点を見いだせずに会議は平行線を辿り続けた。
大英帝国はアメリカの反発に一定の譲歩を示し、英米独仏伊と地域大国であるブラジル・トルコを加えた7ヶ国による多国籍調査団を結成し、満州問題委員会という国際連盟とは別枠の組織の下で派遣するという体裁を提案した。
「合衆国は国際連盟に加盟しておらぬのだから、発言権に一定の制限が掛かる故、専門組織の下で問題を明らかにし、それを基に仲裁案を提示するという方向で如何かな? これならば列強の談合と貴国の懸念も少しは晴れるであろう?」
オースティン・チェンバレン外務大臣は米代表団に語り掛ける。
事前協議という名の談合によってある程度お膳立てしていたものを潰されたが、このままアメリカの言い分を受け入れるくらいなら丸め込める地域大国を含めた多国籍調査団による調査結果での仲裁案というものに組み替えてしまう方が良いと判断したのであった。
そこにチェンバレンの誤算があった。
どうせ出てくるのは現在流布されている情報とそれほど違わない調査結果だと高を括っていたと言っても差し支えないだろう。
「わかりました。これ以上協議を迷走させてては我が合衆国が難癖をつけた、ゴネたとあらぬ疑いを掛けられないとも限らない」
アメリカ側の同意を得ることが出来たことでチェンバレンは協議の散会を告げたが、それはロンドン協定という中身のない結果を産み出したに過ぎなかった。
だが、この場において妥結出来た点はいくつかあった。
1、日本・北洋政府の停戦確約
2、停戦ラインは今の最前線
3、停戦期間は1月20日から8月31日まで
4、停戦期間中、停戦監視団として英米独仏伊の混成部隊が山海関、秦皇島、天津、北京、承徳、張家口に展開、ただし、張家口など奥地の展開には時間が掛かるため、部隊展開が出来た時点からの監視任務
5、満州地域に存在する”元”張軍閥、”元”北洋政府軍の撤退、捕虜送還
6、北洋政府側の日本兵捕虜の送還
7、多国籍調査団の活動は3月1日から7月31日までとする
実質的な満州の分離の固定化である。
流石にこの点においてはアメリカと言えども呑まざるを得なかった。今の時点での即時撤退など現実的ではない(満州全域が無政府状態になる)ため、受け入れるしかなかった。




