バーデンバーデンの密約<1>
皇紀2581年10月27日 ドイツ=ワイマール共和国 バーデンバーデン
岡村寧次の訪問から数日後、ドイツ駐在武官東條英機は列車にて南ドイツの温泉保養地バーデンバーデンへ向かっていた。
岡村の訪問に際して後に自分の首を絞める統帥権問題を封じるべく先手を打っていたが、恐らく岡村は永田鉄山や小畑敏四郎に丸め込まれているのであろうと考えていた。
特に永田は自分の主張を曲げないきらいが強く、そしてそれのためならばあらゆる手段を講じるだけに最も厄介な相手であると言えた。岡村は支那通ではあるが、欧米事情に明るいわけでもない。そうなれば、永田に押し切られてしまうのは目に見えていた。
――だが、岡村が異を唱えたとあっては簡単にまとまらなくなるだろう……。小畑らが将来的に皇道派として活動するのは別に問題ではないが、現時点で統帥権問題は摘み取ってしまわないといけない。
駅に降り立ち、永田らの差し向けた車に乗ろうとするとそこには岡村の姿があった。
「……東條……すまん。永田の説得に失敗した……今の俺に出来ることは貴様に賛同することだけだ……」
「やはり、永田さんは折れてくれませんでしたか……小畑さんは如何?」
「小畑は黙って話を聞いていたが……どう思っているかはわからん……」
「状況はわかりました……小畑さんは兎も角、永田さんが承知してくれないとことが纏まりませんから」
「そうだな……俺は貴様の話で統帥権の独立が後々に足枷となると感じたが、連中は自己目的の達成には必要だと言っているんでな……」
「骨が折れそうですね」
岡村が困惑した表情に同情した東條であった。
――今後の陸軍の動きは全て永田と連動する……主導する存在を野放しにしておくわけにはいかない。
車は駅からほど近いホテルのエントランスに横付けされ、すぐにボーイが出て来て荷物などを受け取り東條と板垣を中へ案内した。
落ち着いた感じの装飾をされた廊下を歩き、案内された部屋は庭に面し明るい部屋だった。
「ほぅ……これは良い部屋ですね」
「そうだな、あまり華美ではなく落ち着く……どうも欧州のホテルは華美な装飾で性に合わないが、ここは良い宿だ」
部屋の感想を岡村と話していると永田が話しかけてきた。
彼はどうも不機嫌そうではあったが、かと言って露骨に敵対的な態度ではなかった。東條が珍しく頑として持論を受け入れなかったことが不機嫌の原因であったようだ。
「東條、久しいな。岡村から話は聞いた……統帥の独立の件だが……貴様は反対なのだな?」
彼らのいる応接セットに歩み寄り、一言断ってからソファーに腰かけて東條は口を開いた。
「永田さん、荒木、真崎両氏の擁立も取りやめていただきたい……彼らは……我らの希望を応える能力を持ち合わせていない……」
永田はキッと目を吊り上げた。
「どういうことだ?以前、申しわせておったことではないか!」
「彼らは……」
東條はそれから暫く、荒木、真崎の性格や行動などを前世の記憶から公開出来る部分だけ抽出して問題点を挙げ、担ぎ上げるべき人物ではないと訴えた。
2・26事件の青年将校の精神的支柱であり、理論でもあった彼らのそれが問題であり、事件そのものに関係性や黒幕としての行動はなかったが、遠因となったのは間違いなく彼らであり、彼らの排除も統帥の独立問題と同じく解決しなければならないものだった。
「……東條、貴様、それをどうやって知った?」
「私がメモを取り、必要において分類し、思考や判断に用いていることはご存じのはず……それらを積み重ねた結果からの判断です」
永田は目を閉じ暫く黙っていた。
「東條、貴様が言うことはわからんでもない……だが、人には欠点があるだろう、それくらいのことは許容出来るのではないのか?実際に荒木氏は人気もあるではないか?」
今まで黙っていた小畑が口を挟んできた。
「小畑さん、国家存亡の問題に許容出来る部分などありません……彼らの無責任で無自覚の行動に陸軍の人材が……いえ、帝国臣民の生命、財産が危険にさらされるなどあってはなりません」
「だが……」
「小畑、やめないか……理屈は東條が正しい……確かに東條の言う通りの面も多々見られる……それが将来的に陛下の信を失う原因に……そしてそれが陛下の陸軍への不信へと繋がるなど許容出来ぬであろう?」
「永田まで……そんなことを……」
「小畑、東條と永田が正しいと頭ではわかっているんだろう?なら、そこは折れるところだ。感情で国家滅亡を引き寄せたいのか?」
岡村が止めを刺した形となり、小畑は黙った。
――2・26の芽を摘むことはこれで出来ただろうか……だが、小畑の皇道派寄りの思想が後々問題になるだろう……。しかし、今はまだ……。