ロンドン協定<1>
皇紀2589年 1月12日 大英帝国 ロンドン
戦に始まり戦に終わった年が暮れ、新年を迎えた。
新年を迎えるとオースティン・チェンバレン外務大臣は精力的にフランス、イタリアの駐英大使に支那新秩序に関する売り込みをかけていた。
前年末に大日本帝国全権団と妥結した秘密協定は隠したまま、北京北洋政府と大日本帝国の仲介、そして停戦監視を行う多国籍部隊の展開を仏伊両国に持ち掛けていたのだ。
仏伊両国は打診を受けると乗り気で反応を示し、逆にチェンバレンに提案を持ち掛けてきた。
「我がフランスとしては秦皇島ではなく、天津の租界を拡大、また山東半島のどこか適当な場所に租借地が欲しいと考えている。先年の南京や上海でのことを考えると拠点があることは望ましい」
「我がイタリアは天津の外港である大港に租借地としたいが、どうだろうか?」
それぞれこの打診の裏に隠された意図を理解した上での吹っ掛けであった。
だが、大英帝国にとって、チェンバレンにとっては、その程度の要求は想定内のものであった。そして、その要求を呑むのは自国ではなく北京北洋政府であることから一向に構わなかった。無論、その要求に対して大英帝国はお墨付きを与えることで味方につけることに成功したのであった。
そして、12日。
大英帝国は正式に日英米仏伊の列強5ヶ国と北京北洋政府を加えた6ヶ国での実務者協議を招集したのであった。
「この様な協議は国際連盟によるオープンなものとしていただきたい。我が国は明らかに日ソの侵略を受けているのだ」
開口一番、北京北洋政府の駐英大使は声を荒げながら訴えた。だが、その声は列強各国に無視された。アメリカ合衆国、ただ一国を除いて。
「我が合衆国もノース・チャイナの主張に同意する。この様な国際会議は国際連盟の下で行われるべきであろう」
「そうは言うが、貴国は国際連盟に加盟していないではないか。連盟に加盟していない貴国に連盟では発言権はない。だからこそ、チャイナをマーケットと考えている貴国にも関与出来る余地を用意したのだが、それを不服と申されるなら……」
チェンバレンはアメリカ駐英大使の反発に冷静に対処した。アメリカの反発は想定の内だった。
「左様、我々はチャイナに権益を有するが故に満州における武力衝突とその経緯を考え、仲介をしようと集まったもの……合衆国も国際社会では大きな影響力を有する国家であるからこそ、仲介役として適任であると考え要請したというに……」
「無論、紛争当事者に肩入れするようなことは我々は行うつもりはない」
チェンバレンに続いて仏伊両国の駐英大使はそれぞれの立場を述べる。無論、上辺だけであるのはこの場にいる全員がわかっていた。
「さて、我が大英帝国は米仏伊の三ヶ国とともにノース・チャイナの領土保全、主権の保持のために一肌脱ぐつもりである。そのために集まったのだ。だが、合衆国は列強として崇高なる使命を放棄し、国際連盟に付託しようという……これは実に悲しいものである」
「我が大日本帝国から一言申し上げたく……。各国が仲介の労を取って下さるとのこと、大変ありがたく思っております。我が帝国としても領土を求めての侵略戦争を行っているわけではないと、まずはここに明言致します。故に、各国が仲介し、停戦監視、戦力引き離しを行うと大英帝国から打診を受けたことに我が帝国政府及び帝国臣民は大きな期待をしております」
チェンバレンの対米批判に合わせて松平恒雄大使は感謝の辞を述べると同時にこの協議が妥結することを期待する旨を示した。これによってアメリカが難色を示すことに釘を刺したのだ。




