東條論文と塔博士
皇紀2582年11月10日 帝都東京
東條・有坂会談から20日、9月27日に東條英機は陸軍大学校において行動を開始した。彼は陸軍内で通用するように戦時被害を想定した形で帝都東京及び横浜、川崎、横須賀などの火災延焼想定図とそれへの対策、被害軽減の方策をまとめた論文を提出。
東條の記憶によって被害地域はほぼ正確に記され、また、被服廠跡地の火炎旋風による被害拡大なども発生条件を中心に詳しく書かれていた。
当初、東條の論文は陸軍内ではあまり相手にされていなかったが、彼にとっては想定内の出来事であった。しかし、この論文と想定図、対策案を有坂総一郎を経由して東京市、東京市長後藤新平へ手渡された。
後藤はこの論文による被害想定の大きさに絶句し、暫くの間再起不能な精神的ダメージを受けていた。同様に東京市職員もこの火災による延焼想定図に衝撃を受け、東京帝国大学へ調査を依頼する事態となった。
そして、10月17日、東條は新たに前年12月の龍ヶ崎地震を元に帝都直下型地震を想定した形で同様の建築物倒壊、火災延焼、津波それぞれの想定図を含んだ被害想定論文を発表した。
陸軍に無視された形の論文は東京市に衝撃を与えていたが、後日発表された地震想定論文はかつて発生した地震災害と昨今の地震災害被害を比較し被害想定を算出していたこともあって改めて受け取った東京市と市長の後藤は切迫した事態と被害の大きさに対策を早急に取るべきだという方向へ促された。
また、東京帝大からの調査結果が届き、火災想定図はほぼ正確であり、延焼を防ぐためには火除け地の設定と高規格道路による延焼防止が必須であり、木造家屋が密集している下町地域は事実上全滅を避けれず、焼死者は数万単位で発生するであろうと結論が書かれていた。
市長の後藤によって帝国議会へ持ち込まれたこの論文は提出から1ヶ月も経っていなかったこともあって多くの衆議院議員にとっては眉唾物であったが、総一郎を介して総理大臣原敬と後藤の間で持たれた和解会談が功を奏していたこともあり、帝国政府預かりということになった。
また、東京帝大によって東條論文に箔が付いたことで陸軍中央の一部が理解を示したが、それでも大勢は論文を無視するか無理解であった。が、東條は陸軍が目を向けるであろうものを別に用意していた。東條にとっての本命は未だ手元に置いたままであったのだ。
東條論文によって政治や産官学は帝都の脆弱性に警鐘を鳴らされていた、丁度その頃、同じように総一郎も別に動いていた。
総一郎御用達となっているいつもの料亭にその相手は招かれていた。
「お忙しいところお呼びだてしまして申し訳ありません……有坂重工業の有坂総一郎と申します」
「いえ、新進気鋭の経営者と伺っております、有坂さんとお会いできこちらとしても望外のこと……内藤多仲と申します」
内藤多仲……戦後に東京タワーを設計した「塔博士」と後に称される人物である。もっとも、彼が呼ばれたのは塔建築を依頼するためではない。
「内藤さん、あなたは先年合衆国へ留学されたと聞き及んでおります……その際に耐震構造理論を考案されたとか……」
「ええ、実は恥ずかしいことですが私の失敗から生まれたものなのですがね……」
「ほぅ? 失敗からですか……失敗は成功の基とは本当のことなのですね」
「ははは。全くです。留学の折にトランクの仕切り板を外して荷物を詰め込んだのですが、それが原因でトランクを壊してしまいましてね……それから渡航する船中ですることがないので、船の構造を見て回っていたのですが、その時にハッと気付いたのです……それをメモに残して、帰国後に研究して理論化したのです」
そう、彼は耐震構造の権威なのだ。事実、関東大震災後の1924年に架構建築耐震構造論で工学博士号を取得している。
それもそのはず、関東大震災の3ヶ月前に竣工した耐震壁付き鉄骨鉄筋コンクリート構造の日本興業銀行本店は設計こそ別人物であるが、彼の耐震構造理論を用いていたものであり、丸の内地区の他の鉄骨造りビルが倒壊しているにもかかわらずビクともしなかったのだ。
また、同様に建設中であった歌舞伎座も内部こそ焼け落ちたが、躯体は無傷であったこともあり、彼の理論は実証されたのだ。
「内藤さんの耐震構造理論を用いた建築物を今後専属で発注させていただきたいのです……どうでしょうか?」
総一郎の申し出に内藤は複雑な表情をした。
「有坂さん、あなたはまだお若いので目新しい技術などに飛びつくということもあるのではないかと思うのですが……まだ私の理論は実証されているわけではありません。確かに私は自信もありますし、間違っていないと確信はありますが……一つの企業を経営されている方がそのような前のめりな姿勢であるのは少々……」
「御忠告痛み入ります……しかし、私はあなたの協力が欲しい。なにがなんでもです。恐らく、近いうちにここ帝都は地震に襲われます……過去の事例から考えると周期や周辺の地震の頻度から間違いないと考えています……これをご覧いただけますでしょうか?」
総一郎は鞄から例に東條論文を取り出し内藤に手渡した。
「これは東條論文と通称されている地震被害想定と火災延焼想定をまとめた論文です。これを見ていただければわかりますが……地震によって間違いなく帝都は全滅します……」
「……拝見致しましょう」
内藤は眉唾な表情で東條論文を受け取り目を通し始めた。
「……建築物の倒壊……木造建築物による火災の拡大……火除け地……火炎旋風……」
内藤の目は真剣さを増していく。
「如何でしょうか……これが出鱈目に思えるようでしたら……断って頂いても結構です……」
「これは……しかし……」
「先日、帝大でも検証されていますが、ほぼ一致する内容であり、極めて重視すべきものと結論が出たそうです……後藤市長を介して帝国議会へも提出されています」
「であれば、信じざるを得ませんな……」
「はい、そこで、内藤さんのお仕事ですが……地震が起きる前にいくつか耐震構造の建造物をつくって頂き、倒壊しないことを証明していただきたいのです……特に重視したいのは居住施設……欧米のアパルトメントの建設です。工期削減を考えて3階建て程度のもので多数建設をお願いしたい……」
内藤は渋い顔をした。
「それは構いませんが……どこに作るのか、それらの話をいただけないと……」
「それについては……渋沢子爵を通して目黒蒲田電鉄沿線の田園調布あたりにと方向で話がついています……また、玉川電鉄沿線も対象となっております」
「わかりました……では、お話をお受けしましょう……」
二人は杯を交わし、ここに関東大震災復興の道筋が固まった。