豊田貞次郎の終わらないフルマラソン
皇紀2588年 12月18日 大英帝国 ロンドン
豊田貞次郎大佐は前年のジュネーヴ海軍軍縮会議の随員として参加していたが、それまではロンドン駐在の武官として駐英大使館に勤務していた。
そのため、英国人の知己は多く、彼がロンドンへ戻ってきたと聞いた彼の知己が訪ねてくることも多かったのだが、今回の彼は秘密交渉の随員であると同時に鉄鋼業振興という密命を帯びていた。
海軍大臣大角岑生大将は豊田を派遣するに当たって「貸しにしておく」と有坂総一郎に言っていたのだが、総一郎にとって海軍側の人脈を作るという点において対英人脈があり、産業にも目を向けることが出来る人物である豊田以上に適任を見つけることが出来なかったこともあり、高い対価を支払うことを受け入れざるを得なかったのであった。
無論、総一郎自身はドイツのクルップ社などとも繋がりがあるため、そちらから技術導入を図ることも可能であったが、ドイツ一辺倒になる危険を冒してまでドイツに肩入れする気はなかった。そのため、海軍人脈によって大英帝国からの技術導入を図る上で最適だったのが豊田であったのだ。
豊田は到着したその日のうちに英国海軍の知己に製鉄技術の導入を要望し、クルップ系に偏っている現在の日本の製鉄技術に危機感を抱いていることを伝え、鉄鋼大手に紹介状を書いて欲しいと依頼したのである。
その際、中島飛行機の中島知久平からの紹介状も手渡し、ブリストル社と技術提携している中島飛行機が身元を保証し、同時に仲介役を務めると伝えたのであった。
中島からの紹介状には豊田を鉄鋼大手だけでなく、自動車産業にも紹介を依頼すると書かれていたことから、豊田は彼があずかり知らぬところで東條-有坂枢軸一派に強制的に大英帝国の産業の厚さを叩きこませようという意図があったのだ。
結果から言えば、豊田はこの紹介状のためにブリテン島各地を駆けずり回ることとなり、秘密交渉には一切関与することはなかったのである。
そして、一ケ月後に秘密交渉がまとまった際、駐英大使館へ呼び戻された彼はげっそりと痩せていたのであった。全ては総一郎の仕業によるフルマラソン視察&スパルタ研修によるものであった。
「思えば、ロンドンに着いたあの日から地獄は始まっていた……視察が終わってロンドンを発った日からはひたすら賽の河原で石積みをさせられていたようなものだ……そう、海軍省と艦政本部と軍令部と連合艦隊と……そしてあの有坂総一郎の無茶振りになんでこの俺があぁまで……いや、もうよそう……あの苦しみのおかげでなんとかなったのだから……耐えれなかったら帝国の未来は真っ暗だっただろうからな……」
彼は後年、回想録を書いた際にそう記した。自分を苦しめた色々な組織への恨み言の中で唯一個人名が出ていたのは総一郎だけだった。




