ライバルの別れ
皇紀2588年 12月17日 小田原 古稀庵
全権団がロンドンへ到着した頃、原敬暗殺事件が未遂に終わったことから衝撃を受けることなく、史実よりも6年も長生きした山縣有朋侯爵が遂に危篤に陥った。
数週間体調思わしくなく、山縣本人も死期を悟り、口述、筆記を合わせて遺言を残していたが、年末の寒気によっていよいよ重篤となったのであった。
小田原に別邸を構え、付近は山縣閥の別邸が林立し、有力人物が小田原詣でをするという大御所政治さながらの様子であったが、原の総理退陣後は事実上の隠居状態となり訪れる人も往時に比べれば少なくなっていた。
その古稀庵に山縣の要請によって原が訪れたのであった。
元々、山縣と原は対立関係、対抗関係にあったが、山縣は政党政治、デモクラシーという日本の歴史上根付いていない新システムを制御するにあたって原の政策を支持し、擁護すると同時に影響力を行使していた。
山縣同様、原もまた山縣のことを評価し、彼の影響力を活用することで政治的敵対勢力を懐柔して従わせるという荒業で未熟なデモクラシーを苦労しながらも制御していたのであった。
「含雪公も死期を悟られたか?」
原は病臥する山縣に向かって開口一番にそういうと起き上がろうとする山縣を手で制した。
「貴様と違ってワシは齢90を超えておる。明日お迎えが来ても不思議はない。昭和の御代になってますます世界はきな臭くなっておる。最早、これ以上ワシが何かを為さんとしても時間がないであろう……ならば、暗殺を乗り越えた貴様に託すのが適当だろう」
「公は欧米との関係を重視しておられましたからな。今の政府に思うところがおありということですかな? でしたら、高橋是清をお呼びになりお叱りなれば良いのではありませんかな?」
「今更、死にかけの隠居が何を言おうと変わらんであろう。だが、貴様はワシの意を理解出来るだろう……貴様がワシが生きているうちはアメリカと戦になることはないと語ったことくらいは耳にしておる」
原は弱気になっているくらいであればいくらか嫌味や喝を入れてやろうと思っていたが、山縣の瞳は真剣そのものであることを悟ると居住まいを質した。
「謹んで伺いましょう」
「うむ、これは文字通り遺言だ、努々忘れるでないぞ。よいか、今の帝国は何者かの意思で誘導されている。それも、明らかに戦の準備へと……戦をするための準備だ。戦になった時のための準備ではない。これは不味いことだ。大英帝国とは協調出来ておるようだからそちらは心配が少ないが、アメリカはいかん……明らかにアメリカは日英に対して不満を持ちつつある。先の軍縮会議はやり過ぎた。アメリカは面子を潰されておる。日露戦役の時と同じようなことは起きぬだろう……」
山縣の危惧は原も感じてはいた。
だが、自らが死ぬはずだった運命が変わったこと、新興の政商によって国力が急速に充実していること、日英関係の良好なこと……これらによって良い方向に動いていると信じていただけに、かつてのライバルからの忠告、遺言によって原自身が直視するのを避けていた可能性を直視せざるを得なくなったことは彼だけでなく、彼と轡を並べる仲間たちにとっても見つめなおすべき事柄であった。
「貴様は暗殺未遂以来、有坂コンツェルンと懇意にしておるそうだが……いや、今の立憲大政会の大物は殆どがここと繋がっておるな……奴の入れ知恵は確かに帝国に大きな富をもたらした……だが、それが何を引き寄せるのか、よくよく見つめなおすことだ。今の陸軍……いや帝国そのものだな……満州という美味そうな果実に手が届き嚙り付こうとしているが、それが黄泉の国の食べ物であるかもしれんと誰かが言ってやらねばならん」
「確かに帝国は満州をほぼ手中にしてその大地に眠れる資源を手に入れつつありますな。そこに大英帝国は蜜を求めて群がるように秘密協定を持ち掛けて来ておりましたからな……」
「そうだろう……大英帝国は知っての通りの二枚舌だ。いや、それこそが国際社会の有り様だ。だが帝国が幼稚なだけであると言える。こちらが余程用心して掛からねば利用されて身を滅ぼしかねん。欧州大戦後に日英同盟が破棄されたのと同様にな……」
山縣はそこまで言うと目を閉じる。
「お疲れになりましたか?」
「あぁ、ワシは休む……これが今生の別れになるであろう……原よ、ワシは貴様が嫌いだが、貴様以上にワシのやることを理解した者はおらん。頼む。帝国を守ってくれ……」
「必ず……」
原は山縣の手を握りそう言うと山縣は満足そうに頷きやがて寝息を立て始めた。
山縣が眠ったのを確認した原は古稀庵を後にし、帝都へ向かった。
「山縣侯の意思はワシ以外引き継げるものはおらん……なんとしても日米対決を避けるべく動かさねば……」
小田原から帝都へ向かう急行列車の車中で原は決意を新たにするが、彼が東京駅のホームに降り立った時、山縣逝去の訃報が秘書官から伝えられたのであった。




