満州平定と全権団の訪英
皇紀2588年 12月14日 大英帝国 ロンドン
北満州における”満州人救援作戦”の展開による事実上の第二次侵攻作戦が開始されて2週間。
ハルピンにおける戦闘と残敵掃討は数日で片付き、チチハルも12日に陥落したことで満州における主要都市の全てが大日本帝国による占領下に置かれるに至った。
関東軍主力はハイラル前面に戦力を集中させ、奉天攻略以来温存されてきた列車砲もチチハルの操車場に集結し、ソ連赤軍との決戦に備えていた。
関東軍は浦塩派遣軍と朝鮮軍を統括する上位組織に昇格し、軍編成から総軍編成へと改組されたのである。史実よりも13年も早い総軍化であった。これまでは方面軍単位での作戦行動を参謀本部、大本営の指揮の下で行っていたが、戦線が統合されたことで総軍体制による戦域単位での作戦行動へと切り替えられたのである。
関東軍編制
第1軍
機動装甲師団
第21師団
第22師団
第23師団
特殊作戦群
第1装甲列車連隊
第2装甲列車連隊
第3装甲列車連隊
第1列車砲連隊
第2列車砲連隊
第1鉄道工兵師団
第2鉄道工兵師団
群直属偵察飛行隊
浦塩派遣軍
第2師団
第7師団
第8師団
朝鮮軍
第19師団
第20師団
満州、沿海州、朝鮮半島が一体化した戦域として現地軍の改組を行ったことで戦力の展開と配備が最適化され、同時に多方面作戦を行える体制を築いたのである。
特に鉄道を用いた作戦を行う専門部隊としての特殊作戦群の創設は分散配置された装甲列車、列車砲の集中運用と鉄道工兵の連携が出来たことで、戦略的戦術的な列車砲の運用が可能となったのである。また、教導飛行団から偵察機を融通させたことで空からの観測射撃が可能となったことは奉天攻略戦の成果と言える。
総軍化によって、司令部は総司令部へと改組され、同様に司令官は総司令官、参謀長は総参謀長へとそれぞれ昇格したのである。また、軍編成としての関東軍は廃止された代わりに第1軍が創設され旧関東軍組織を引き継いだのである。また、大連にあった関東軍司令部から長春に関東軍総司令部の移転が計画され、既に着工されていた。
これらによって満州の軍事占領の長期化、既成事実化を推し進め、大英帝国との妥協を得ることで軍事的だけでなく、外交的にも固定化を狙うというのが大日本帝国の意思であった。
無論、帝国政府の方針には在野の政治家やマスメディア、大陸浪人、アジア主義者には不評であり、反発を招いていたが、それとて一般民衆には政府と軍の成功に酔いしれ相手にされることはなく、殆どが葬り去られていた。
そして、14日。
松平恒雄駐英大使と帝国全権外交団がロンドンに到着したのであった。




