三菱製鉄清津製鉄所
皇紀2588年 10月13日 朝鮮総督府 茂山
北朝鮮最大の鉄山、咸鏡北道茂山。
ここの鉄鉱石は品位38%という貧鉱の部類に相当する鉱山であるが、その埋蔵量は南満州の鞍山鉄山を遥かに超えるものと考えられている。また、純粋な磁鉄鉱だけを見ると鞍山鉄山よりも茂山鉄山の方が選鉱容易であるということから重点的に開発するべき鉱山として指定されている。
しかし、満鮮国境に近く、山中深いことから、輸送手段が鉄路のみであり、この点は不利でもあった。だが、不利な条件が重なるこの茂山鉄山であるが、今、脚光を浴びつつあり、三井住友三菱の三大財閥が続々と開発のために人員を送り込んでいたのである。
三大財閥は新興の有坂コンツェルンが政商として政府や軍部、官公庁に侵食したことで割を食っている部分があり、巻き返しを虎視眈々と狙っていたのであるが、満州事変の進展によって東満州の石炭が恒久的に手に入る状況となったことで、茂山鉄山の大規模開発に投資を行うこととしたのであった。
東満州の佳木斯、東安、牡丹江、琿春などには石炭が豊富に採れる炭田が広がっていることもあり、鉄路によってこれを朝鮮総督府領内に運び込み、清津に大規模な製鉄所を建設、ここにおいて一貫製鉄を行うというものであった。
製鉄所は三菱製鉄、日本製鋼所が名乗りを上げ、最終的には三菱製鉄が引き受けることとなり、欧米からの技術導入を図ることで水面下で動いていた。だが、そこにクルップ社から特許を買っていた有坂コンツェルンが三菱製鉄に特許利用を提案し、これによってクルップからの技術導入が行われることとなったのである。
この三菱-有坂間の交渉仲介役となったのが亡き加藤高明の紹介によって構築された対三菱人脈であった。これによって三菱側との折衝が進むことで有坂コンツェルンが欧米から仕入れた技術などを受け渡すことが可能となったのであるが、その第一弾が三菱製鉄清津製鉄所である。
史実における清津の製鉄所は日本製鉄の成立後37年のことであり、年産銑鉄140万トンの計画であったが、実際には1/4の35万トンのみとなり、製鋼・圧延能力は設置されなかったのであるが、時間的に10年近く先行しての建設となるため、史実規模を当初から建設することで進んでいた。
史実の27年の官営八幡製鉄所が計画した年産100万トンは38年に最終的に完成を目指した。逆に言えば、日本製鉄は八幡製鉄所の年産100万トン計画が完成間近であることから次の投資先として37年に清津製鉄所を建設し始めたということだろう。だが、時期的に逸していたことから帝国の継戦能力には殆ど寄与しなかったわけだ。
それを前倒すことが出来るメリットは計り知れないものであるのは間違いなかった。
三菱製鉄清津製鉄所計画
高炉 日産500トン×8基(年間350日稼働⇒年産140万トン)
コークス炉 日産650トン×8基(年間350日稼働⇒年産182万トン)
ベンゾール工場 年産3万トン
タール工場 年産11万トン
平炉 14基 年産70万トン
条鋼圧延設備 - 年産28万トン
厚板圧延設備 - 年産40万トン
史実43年時点での日本製鉄全体の年間銑鉄製造能力が522万トン、単独製鉄所としては国内最大規模であった八幡製鉄所が210万トン規模、史実清津製鉄所が35万トンであることを考えると、純粋に100万トンの上積みが可能であり、また、同様に満鉄系の鞍山製鉄所の能力強化が行われていることを考えても製鉄能力の大幅強化による国力に寄与するところ大である。
そして、この日、清津製鉄所建設予定地において起工の神事が執り行われのであった。
8月中旬のプロジェクト開始から2ヶ月で着工という電撃的なそれは経済紙をにぎわせることとなったのである。




