リリエンフェルト、遂に来日
皇紀2588年 10月3日 帝都東京
駐英大使館から大使館新築と別館建設の内諾を得たという報告が外務省を経由し帝国政府にもたらされた。急遽この要望が出されたのには意味があった。
大使館の機能強化という表向きの意味もあったが、諜報機関、情報機関としての役割を持たせるためであったのだ。甘粕正彦退役大尉率いるA機関やそれに続く岩畔豪雄のG機関の活動拠点を欧州に設置することで支那大陸中心の諜報謀略を欧州においても行い、仮想敵国の新兵器開発や新技術開発情報を奪取することを目論んでいた。
甘粕のA機関は元々が博徒やヤクザ上りが多いこともあり、どちらかと言えば阿片密売や裏社会への浸透と懐柔がメインである。だが、岩畔のG機関は偽札製造、盗聴、郵便検閲をメインとしているだけにその性格は偏りを見せていた。
有坂総一郎と東條英機が中野学校設立を目論んでいたが、未だその準備は進まず、東條の個人的な人脈によって甘粕のA機関が謀略を引き受けているという状態である。
また、外務省の暗号が解読されていることもあり、早急に強度の高い暗号通信に切り替える必要もあった。だが、外務省は危機感がないため今も平気で解読されている暗号で機密電を垂れ流していたのだ。
「大英帝国も訝しがっているでしょうが、かと言って断る理由もない以上はこちらの思惑通りに進むことでしょう」
「だが、例のアレはトランジスタの開発がなければ結局は前世の様に解読されるぞ?」
総一郎と東條はいつものように有坂邸にて謀議を行っていた。
渡英前の根回しを行い、石油関係は出光佐三と南満州鉄道が引き受け、帝国政府の後押しによって占領地域の試掘とインフラ整備を進めることとなっていた。
また、帝国政府は事変拡大によって満州全土の解放を方針としたこともあり、有坂重工業や銃火器メーカー、砲兵工廠はフル操業で銃火器、弾薬の生産を行うこととなり、特に有坂重工業は荒木貞夫中将から依頼による試製機動砲の量産を並行して行うこととなり、完成と同時に即納品、木更津、富津、習志野原などで評価試験が繰り広げられることとなるのであった。
「そのトランジスタですが、高純度ゲルマニウムを餌にリリエンフェルト博士を引き抜こうと工作しておりましたが、ようやく首を縦に振ってくれまして、来月来日することとなっております……これでトランジスタの開発が進みます。基礎理論は出来ているのですから、来年か再来年の初頭には形になると思いますよ」
「あの話ようやくまとまったんだな……随分かかったではないか?」
「それが……高純度ゲルマニウムの実物を見るまで信じないと彼が駄々を捏ねまして……それで先に高純度ゲルマニウムのインゴットを量産して現物を見せたことでやっと重い腰を上げてくれたんですよ……おかげで使い道もないゲルマニウムを貯め込む羽目になってしまいました」
ユリウス・エドガー・リリエンフェルト。オーストリア=ハンガリー帝国レンベルクにて生を受け、フンボルト大学ベルリンで学んだ後、25年に電界効果トランジスタの原型を考案して3件の特許を取得したものの、当時の技術水準では実現しなかった。
だが、その頃には既に有坂コンツェルンではゲルマニウムの量産化の目処は立っていた。だが、彼は当時の技術水準によって実現性が低いと自身が一番理解していたこともあって、有坂コンツェルンからのオファーに応えることはなかったのだ。
しかし、有坂コンツェルンが本気でゲルマニウムの量産を開始するとその態度は徐々に軟化、そしてインゴットの実物を見ると遂に首を縦に振りトランジスタの特許の譲渡と開発への協力を確約したのであった。
「だが、博士にはゲルマニウムの供給をする代わりに特許を寄越せとはあまりにも交渉条件が酷いとは思わんか?」
東條は総一郎や有坂コンツェルンの交渉結果を聞いていただけにリリエンフェルトに同情をしていた。
「そもそも、博士が首を振らずに頑なだったのがいけないのです。現物を見せた時点で対等ではないのですから仕方ありません……ちゃんと対価を払うだけまだ良心的だと思っていますよ」
「まぁ、なんにせよ、これで電探も暗号機も見えてきたな」
「ええ、史実でボロ負けしていた分野ですから……少なくとも暗号が解読されたことで待ち伏せなんて恥ずかしいことは減るでしょう」
「だと良いがな……」
東條は自嘲気味に言う。




