1928年世界情勢<6>
皇紀2588年 8月18日
各国の情勢最後は”氷の大地の飢えた野獣”ことソビエト連邦だ。彼らのことを語らずして世界情勢など語ったところで意味などないだろう。
史実世界と彼らのたどった道は大きく異なる。東條-有坂枢軸の最初の犠牲者がソ連だと言っても良いだろう。
東條英機が覚醒したバーデン・バーデンの密約前夜、有坂総一郎が史実介入を始めた1921年頃までは概ね史実通りの展開でソ連は拡大の一途を辿っていた。
ポーランドとの戦争はウクライナを手中にしたことで終結し、白軍と欧州列強の介入も概ね片付けたことで残るは極東共和国と大日本帝国だった。
大日本帝国とともにシベリアに出兵していたアメリカ合衆国も1920年1月には単独撤退を通告し、大日本帝国のみがシベリア出兵を継続することとなった。
そして3月14日……遂にニコラエフスクにおいて尼港事件が発生、最終的に日本人居留民他軍民合わせ700余名が虐殺された。これに帝国政府は断固たる姿勢を示し、北樺太の保障占領を決定し、同時に尼港の救援を決定したが、結氷期でもあり、容易に救援を行うことが出来なかった。
6月になり救援に向かったが、既にニコラエフスクは焦土と化しており、シベリア出兵への批判が続出する事態となったこともあり、帝国政府の方針は北樺太以外は撤退という方向となった。
だが、情勢が転換する。有坂重工業率いる総一郎の献納による大量の銃火器と弾薬が浦塩派遣軍に届いた。21年初冬に量産が始まった試製自動小銃と試製機関短銃を装備した第8師団がウラジオストクに上陸したのである。22年4月に発生したウスリースク市街地戦で新装備は想像以上の戦果を挙げたのだ。
これによってシベリアにおけるパワーバランスが逆転し、現地部隊の意見具申もあり帝国陸軍は国内駐留部隊から根こそぎ機関銃、工兵、鉄道兵を動員することで浦塩派遣軍の戦力強化を推し進め必勝の体制を構築していった。
浦塩派遣軍はウラジオストクとその周辺を鉄壁の守りで確保するとともに占領地域の拡大を図ったが、その間、ソ連もパルチザンを送り込むなど両勢力ともに戦力の強化を進めていた。
だが、その束の間の冷戦状態も終わりを迎えた。浦塩派遣軍は第8旅団を率いる荒木貞夫と青年将校たちの主張により発令されたハバロフスク攻略戦が夏季攻勢として行われることになった。それだけでなく、真崎甚三郎率いる第1旅団は北樺太に進駐すると間もなく間宮海峡を渡り、沿海州に上陸、一路ハバロフスクを目指した。明らかな独断専行であった。
折から発生していたビキン攻略戦と呼応するかのような真崎兵団の電撃攻略によってハバロフスクが陥落し、最後までビキンで抵抗をしていた極東共和国軍・赤軍・パルチザンは浦塩派遣軍司令官立花小一郎の「介錯してやるまで」の一言によって残敵掃討とばかりに徹底した攻撃が加えられ遂に10月3日に降伏したことで戦闘状態は事実上終結した。
23年12月初旬に日ソ両国が満州長春において国境画定に関する長春条約を締結したことで5年にも及ぶシベリア出兵は大日本帝国の勝利という形で終結を見た。
この間、ソ連は無為に過ごしていたわけではなかった。
フェドロフM1916自動小銃などを再研究させると同時に量産に適したものを開発する様に動き出したのである。だが、いざ改良型を開発したは良いがコストが掛かり過ぎることと、推進者の政治的闘争による死によってその推進は中断を見る。これは24年のレーニンの死去に伴うヨシフ・スターリン、レフ・トロツキーの権力闘争によるものだった。
また、ソ連はロシア帝国の後継でありながら旧帝国の債務支払いを拒絶するという暴挙に出たことで列強との関係改善は一向に見られず外交的行き詰まりを見せつつあった。
22年のラッパロ条約によってドイツ=ワイマール共和国と結び、秘密協定に従ってドイツの新兵器開発実験を手助けすると同時にその情報を得る関係を築く。だが、その関係も長くは続かなかった。26年にロカルノ条約が結ばれることでドイツが国際社会に復帰、国際連盟にも加盟することとなったからだ。
21年から行われていた新経済政策は農業生産を拡大させるなど効果があったが、トラストの出現など社会主義との矛盾が激しくなり、遂にスターリンは計画経済を実施に移すことを決意、史実通り28年から第一次五カ年計画が始まるのであった。




