1928年世界情勢<4>
皇紀2588年 8月18日
次は中欧ハンガリーに目を向けてみる。
かつてのハプスブルク帝国は分割され見る影もなく、同じ家に住んでいた住人たちは今では敵同士となり果てた。
オーストリア帝国の工業の中心であったベーメン・メーレンはチェコスロヴァキアの主領域となり、レンベルグなどガリツィアはポーランド領となり、南ティロルはイタリアに未回収のイタリアとして奪われた。ハンガリー王国の領域もスロヴァキアはチェコスロヴァキアの成立で失われ、ルーマニアにトランシルヴァニアを奪われ、クロアチアとスロベニアもユーゴスラヴィアに奪われていた。
オーストリア本国ではハプスブルク家を追放し、家財を没収するという暴挙に出ていた。ハンガリーにおいてもハプスブルク家の復帰が認められず、王位は空位とされオーストリア=ハンガリー帝国海軍提督であったミクローシュ・ホルティが摂政に就き事実上の国家元首として君臨していた。
元々ホルティは旧皇帝カール1世(ハンガリー王としてはカーロイ4世)の王位復帰に賛意を示していた。また、彼自身もハプスブルク家に忠誠を誓う忠臣であったことから復帰には前向きであったが、カール1世が本国であるオーストリアへの復帰を望みこれに侵攻を要望したことで風向きが変わった。
彼自身は忠誠を誓う忠臣であるからこそ主君の願いを聞き入れたいが、この時期のハンガリーの国情……特に国力と外交関係を考えると主君の願いであっても実現は非常に困難であった。無論、彼自身も帝国の再興を願う側であったし、失われた領土の奪還を望む側だった。だが、それにはあまりにも時期が悪かったのだ。
そして、ホルティの危惧した通りに事態は推移した。旧帝国を構成する国家であるチェコスロヴァキアは戦争準備を開始、同時にユーゴスラヴィアも国境に戦力を展開するという状態になった。
また、国内でも議会はカール1世の逮捕を要求し、内戦状態となり、内にも外にも敵だらけとなったホルティは国内情勢の安定を優先することを決断、事情を説明の上で主君を逮捕するに至った。だが、チェコスロヴァキアとユーゴスラヴィアは苦渋の決断を行ったホルティの心情を無視するかのように兵を退くどころか更なる圧力をかけてきたのである。
これにはさすがのホルティは激怒し、戦争を決意、軍の動員を計画したが、イギリスからの反対によって断念することとなった。そして、議会側もカール1世の復位を認めないため、国事勅書の無効化を宣言するに至った。
ここにハンガリーおけるカール1世の復位運動は潰えることとなった。
しかし、それはホルティにとっては最初の苦難でしかなかった。いや、序章でしかなかったのである。
20年~21年にかけての復位運動は周辺国との全面戦争の危機を招いたことでホルティはハンガリー人の大ハンガリー再興の夢が如何に困難であるのかを刻み込まれたのであるが、逆にハンガリー国民にとってはそれが逆に作用したのである。
イタリアにおいてファシスト政権が成立し、ハンガリー国内でも同様にファシスト政党が勃興しつつあった。矢十字党を始めとする各々の民族主義政党の綱領は似通っており、概ね「大戦後の失地回復」と「ホルティへの忠誠」が共通して見られていた。だがしかし、ホルティ自身は全体主義的な民族主義運動には度々懸念を表明し、特にイタリアから影響されたファシスト運動は嫌悪していた。
これは民族主義の発露による戦争、安易に国民を煽り戦争を引き起こす切っ掛けとなりかねない政治運動だと考えていたからだ。それゆえに、彼は度々警察力によってこれに介入し法の許す範囲で規制を掛けていたが、それすらも容易ではなかった。
時代的・地政学的にそれらの政治運動の流れを止める事は難しく、国民の支持の元、緩やかな権威主義的独裁体制であったホルティ政権が矢十字党のファシストに対し徹底した弾圧を行う事は出来なかったのである。




