1928年世界情勢<3>
皇紀2588年 8月18日
ドイツ、フランス、イタリアと続いて中欧・東欧に目を向けてみる。
ロシア帝国崩壊に伴い独立したバルト三国、ポーランドだが、ポーランドとソ連との戦争によって東方領土を確定させたが、その後もウクライナ問題で両国間には火種がくすぶっていた。
特にウクライナ人のポーランドに裏切られたという民族感情的なしこりはソ連にとってはウクライナを統治する上で非常に有効なカードであり失われた領土奪還への旗印、大義名分となったのである。
そして、ドイツから得た西部領土についてもドイツ系住民に対して圧迫を加えるというポーランド民族優先政策を実施したことで反感を買っていたのである。南部国境に関してもチェコスロヴァキアとの紛争を抱え、結果として四方八方敵だらけという状態に陥っていた。
また、同じくロシアから独立したばかりのリトアニアは歴史的首都であるヴィリニュスをポーランドに奪われた形となり、これによってソ連よりもポーランドが目下の主敵と認識され領土問題解決が国家課題となっていた。
国際管理地域であるメーメルをバルト海への出口として確保するために23年に侵攻併合したことでドイツとの関係も悪化していた。
こんな調子で東欧北部は火薬庫だらけとなり果てたが、この状況は当の本人たちではなくイギリス・フランス・ソ連にとっては好都合な状況だった。全方位に敵を抱えるポーランドは英仏にとってドイツの注意を逸らすには丁度良い存在であり、ソ連にとっては国内統治上、特にウクライナ支配にとって都合が良かったのだ。
次に視線をバルカン半島に向けてみる。
欧州大戦が終結し、ハプスブルク帝国が解体された結果、バルカン半島はセルビア王家が支配するユーゴスラヴィア王国として統合されるに至った。
オーストリアからスロベニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ハンガリーからクロアチアが編入されたことでスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が18年に成立した。
29年にユーゴスラヴィアに国号変更するまでは暫定的な国名としてセルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国が用いられ、南スラブ人の統合国家としてセルビア人が代表して統治する形態が取られたのである。だが、これがユーゴスラヴィアの命運を分けた誤りだったのだ。
統合された当初は新国家による未来展望も希望もあったが、セルビア人は兎も角、クロアチア人やスロベニア人たちにとっては旧支配者であるハプスブルク帝国と何ら変わらない……いや、それよりも待遇が悪化していることに気付くのはそれほど時間が掛からなかった。
南スラブ人の国家というお題目は所詮はお題目であり、支配者が変わっただけで、セルビア人にとっての領土拡大に過ぎなかった現実に気付いたのである。
クロアチア人たちは分権的・連邦主義的な政治体制を望み、中央集権的な政治体制を望むセルビア人と対立を増していった。さらに、セルビア人は政府の主要ポストだけでなく官僚など国家統治の主要な部分を独占しクロアチア人たちの反感と憎悪は拡大していったのである。
国王アレクサンダル1世は史実通りに国王独裁、中央集権、セルビア人優越主義を着々と進めていたのであるが、それが後にどう影響するか……。
東欧、バルカン半島はこの世界でも火薬庫であった。




