豊田貞次郎
皇紀2588年 8月18日 帝都東京
永田鉄山は商工省と大蔵省の駆け引きを苦々しく思う。
彼の脳裏にはエーリッヒ・ルーデンドルフの総力戦思想に基づく高度国防国家があった。それには陸軍の主張……即ち自身の主張を政治経済に反映浸透させ、それによって国民一人一人が日本の国防の責任を担うという自覚を持つ様に仕向ける必要があった。
だが、陸軍内において青年将校や中堅将校には浸透している部分はあるが、それでもなお、主流派たることが出来ず、現時点では英雄将軍の皇道派に及ばず、それどころか政財界、官僚には東條一派に出遅れるという始末であった。
元々東條英機は永田に忠実な後輩であったが、バーデン・バーデン以来、独自の道を進み、それどころか永田の歩む道に妨害工作すら行う様になった。
――一体、何が奴をあのようにさせたのか……。それどころか、官僚どもは東條に近しい発言を行うことが多い。裏にある有坂が根回しをしていることもあるが……元々部下への配慮に定評がある東條だからこそ奴の支持者が増えておるのは間違いない……。全く厄介な男になったものだ。
永田はこの場で発言を控えることにした。あまりにもここにいるメンバーは東條色が強いと改めて認識したからだ。
商工省の統制主義は今を以て健在だが、それでも東條に影響された岸信介によって周旋されたこともあり、重要産業統制法、自動車製造事業法など商工省が準備している統制法案は相当に軟化していたのだ。
――今のままでは分が悪すぎる。やはり、英雄将軍の様に戦場で手柄を立てて地歩を固めるべきであったかもしれん……だが、俺は軍務官僚肌だからな……であれば、やはり軍内部から固めねばならんか……。今は雌伏と忍の一字と耐えよう。
永田が革新官僚と渡りをつけ影響力を示すよりも軍内部での派閥形成を決した瞬間だった。今まで黙って推移を見守っていた海軍の豊田貞次郎がついに口を開いた。
「諸君の駆け引きは国内ではもっともであると思うのだが……私は国内事情に明るくないのでね、海外の事情を伝えてみようかと思うのだがどうだろうか?」
商工、大蔵の官僚たちは彼の発言に興味を示す。
「昨今、鉄鋼業の勃興著しいのではあるが、欧米のそれに比べ我が帝国のそれは未だに産声を上げた程度でしかない。八八艦隊の建造だと息巻いた我が帝国海軍ではあるが、それとて一度に建艦出来るほどの実力があるわけではない」
「確かに豊田さんの仰る通りですな。精々年間2隻の起工、しかも数年単位で船台船渠は塞がるが関の山では……」
「左様、そんな状態では対米7割だろうが同等だろうが、戦時においてはそれほど意味を持たぬ。軍縮会議に同行してみてきたが、列強は余裕の表情で交渉を行っていた。だが、我が代表団はどうだろうか? 必死に比率を高めんとなっていた。それでは同じ土俵で戦えているとは言えぬであろう?」
豊田は同意を示した陸軍の鈴木貞一に視線を向ける。無論、彼も頷く。
「そこでだ、折角、国家行政を担うべき逸材が揃った会合なんだ。駆け引きではなく、腹を割って、己が必要とする、目指すべき国家像を語らないかね? 無論、それは永田くんの言う高度国防国家にも直結すると思わないか」
豊田の一言は永田の表情を明るくした。だが、すぐに永田は表情を引き締める。
「省利省益ではなく、国益を語ろうと……その言葉、この永田、感銘しましたぞ」
「うむ。そこでだ、海軍としては……製鉄に力を注いで欲しいと考える。何も戦艦を造るためではない。鉄を造るためには鉄鉱石や石炭が必要であって、それを運ぶためには船が必要だ、列車が必要だ……それを支えるには結局製鉄業の振興以外にはない。そして、これからは製鉄以外の非鉄金属の精錬製造が大きく影響するようになる……だが、それは製鉄業以上に産声を上げたばかりであり、それこそ商工省が言うところの統制し保護育成すべきものではないかね?」
豊田の言葉に椎名悦三郎は用意していた資料に目を走らせる。
そこにある資料には有坂コンツェルンがパラオなどでボーキサイトの採掘に乗り出したという話題とその採掘能力などが記されていた。そしてアルミ精錬に関する国内稼働状況の資料を見比べた。
「豊田さんの仰る点は確かに力を注ぐべきものであると考えます……吉野さん、岸さん、これは自動車産業にも匹敵する重要なものであると考えます……それも国内で需給可能な産業であり、輸出産業に成長させ得るものと考えます」
椎名の言葉に岸は頷く。
「なるほど……それであれば、大蔵省としても補助金を出す名目としては十分ですな」
「いずれ、航空機も全金属になるであろうと私は考えている。そうなれば、軽い素材であり、加工がしやすいアルミやジュラルミンが有力となる。その際にそれを造れる能力がないのでは話にならんと考えているのだよ」
豊田は目を細め笑みを浮かべた。




