革新官僚たちの宴
皇紀2588年 8月18日 帝都東京
満州事変が順調に推移する中、奉天郊外の護国法輪寺、通称北塔において張作霖の遺体が発見され、同じく護国法輪寺の伽藍の一角において田中義一特使が発見され保護された。
田中は保護された当初、非常に衰弱していたが意識はしっかりしていた。だが、同時に狭心症の既往がみられ、すぐに関東軍によって大連まで移送され陸軍病院に入院することとなった。長期入院の必要があるとの診断によって帰国は年を明けてからになるだろうとの見解が公表されるに至った。
また、田中の保護の報が帝都に届いたこの日、大蔵省、商工省の若手官僚による会合が持たれていた。会合の主催者は商工官僚岸信介であった。
彼らの会合は東方会議以来月1回の割合で行われていて、その活動はおおよそ統制主義による国家統治、経済統制による計画経済、傾斜生産方式、産業保護、産業育成に関する研究であった。
その主要メンバーは以下の通りである。
商工省
岸信介、吉野信次、椎名悦三郎、美濃部洋次
大蔵省
星野直樹、賀屋興宣、迫水久常、毛里英於菟、藤井真信、山田龍雄、石渡荘太郎、青木一男
陸軍省
永田鉄山、鈴木貞一
海軍省
豊田貞次郎
彼らは財界の自由主義志向とは別の保護統制主義を志向する政策を研究立案することで自給自足を確立せんと考えている。
史実で、彼らは実際に満州で、そして帝国においてその統制主義を戦時経済に反映し、一定の成果を上げていたのは事実であり、敗戦後も実質的に戦後政府の実権を握り、その政策に大きく影響を与えていたのだ。
戦後高度経済成長の起爆剤と名高い、傾斜生産方式はその実、統制経済そのものであり、戦時経済の延長線でしかない。要するに戦時経済で資源の調達に失敗したが、政策の方向性は正しく資源さえ手に入れば機能したことの証明だったと言える。
それらを主導したのが商工官僚であり、大蔵官僚であった。そして、彼らは帝国の全てを運営しているのは自分であるという自負があった。その自負は自意識過剰でも何でもなく、事実、彼らの政策によって支那事変8年、対米戦争を3年半も継続出来たのであった。
その立役者が星野、賀屋、岸であると言っても過言ではない。そして、よく見て欲しい。ここに上がっている人物の多くは戦後政治にも名を残す人物ばかりである。
そんな彼らが会合を持つことは史実同様に、官僚たちは官僚たちで意志を持ち己の野望を達せんと考えている証拠であったのだ。




