表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2588年(1928年)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

353/910

革新官僚たちの宴

皇紀2588年(1928年) 8月18日 帝都東京


 満州事変が順調に推移する中、奉天郊外の護国法輪寺、通称北塔において張作霖の遺体が発見され、同じく護国法輪寺の伽藍の一角において田中義一特使が発見され保護された。


 田中は保護された当初、非常に衰弱していたが意識はしっかりしていた。だが、同時に狭心症の既往がみられ、すぐに関東軍によって大連まで移送され陸軍病院に入院することとなった。長期入院の必要があるとの診断によって帰国は年を明けてからになるだろうとの見解が公表されるに至った。


 また、田中の保護の報が帝都に届いたこの日、大蔵省、商工省の若手官僚による会合が持たれていた。会合の主催者は商工官僚岸信介であった。


 彼らの会合は東方会議以来月1回の割合で行われていて、その活動はおおよそ統制主義による国家統治、経済統制による計画経済、傾斜生産方式、産業保護、産業育成に関する研究であった。


 その主要メンバーは以下の通りである。


 商工省

  岸信介、吉野信次、椎名悦三郎、美濃部洋次

 大蔵省

  星野直樹、賀屋興宣、迫水久常、毛里英於菟、藤井真信、山田龍雄、石渡荘太郎、青木一男

 陸軍省

  永田鉄山、鈴木貞一

 海軍省

  豊田貞次郎


 彼らは財界の自由主義志向とは別の保護統制主義を志向する政策を研究立案することで自給自足を確立せんと考えている。


 史実で、彼らは実際に満州で、そして帝国においてその統制主義を戦時経済に反映し、一定の成果を上げていたのは事実であり、敗戦後も実質的に戦後政府の実権を握り、その政策に大きく影響を与えていたのだ。


 戦後高度経済成長の起爆剤と名高い、傾斜生産方式はその実、統制経済そのものであり、戦時経済の延長線でしかない。要するに戦時経済で資源の調達に失敗したが、政策の方向性は正しく資源さえ手に入れば機能したことの証明だったと言える。


 それらを主導したのが商工官僚であり、大蔵官僚であった。そして、彼らは帝国の全てを運営しているのは自分であるという自負があった。その自負は自意識過剰でも何でもなく、事実、彼らの政策によって支那事変8年、対米戦争を3年半も継続出来たのであった。


 その立役者が星野、賀屋、岸であると言っても過言ではない。そして、よく見て欲しい。ここに上がっている人物の多くは戦後政治にも名を残す人物ばかりである。


 そんな彼らが会合を持つことは史実同様に、官僚たちは官僚たちで意志を持ち己の野望を達せんと考えている証拠であったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ