奉天の長い夜
皇紀2588年 8月7日 満州 奉天上空
時系列は少し遡る。
所沢教導飛行団は開戦と同時に各方面に飛行、敵情を逐一報告し、場合によっては奉天軍閥に服属する諸都市へビラを散布し降伏を促すなど八面六臂の活躍をしていた。
そして、奉天上空に何度目かの偵察飛行を行う第3小隊には指揮官代行として石原莞爾中佐が同行していた。
「おい、高橋曹長」
「はっ、なんでありますか?」
「無線が積んであるだろ、味方の列車砲に修正射撃位置を知らせろ。あんな甘い射撃では市街地が穴だらけになるだけだ。それと一斉射撃ではなく、間断なく連続で撃つように伝えろ。敵に逃げる隙を与えるな」
石原は八七式重爆撃機ことドルニエDo.N爆撃機(ライセンス生産)の機上にて指示を出す。
有坂総一郎の頭の中では既に列車砲の効率的運用方法があったが、それはまだ陸軍側には伝わっておらず、集中投入しているが個別で運用されている状態だった。
しかし、石原は大連にて複数の列車砲が並ぶ姿を見て運用方法について自分なりの結論を出していた。それは殆ど総一郎の構想と同じであり、それには空陸の一体化が必要であると考えていた。
斥候部隊を態々敵中に突入させて彼らに弾着観測させる必要もなく、上空から敵情を常に把握しつつ間断なく砲弾の雨を降らせ続けること、そして射撃管制を個別に行うのではなく、中央指令室を置き、そこから任意の射撃目標に対して観測情報から修正射撃を加えるというものであった。
その構想を実際に試す好機であると考えた石原は敵の居ない奉天上空で悠々と飛行を続け、次々と射撃位置の修正情報を流し続けた。
修正には応じたが、指示に従わずに一斉射撃をしていた列車砲群であったが、暫くすると次第に石原の指示通りに砲撃を行う様になり、その効果もあり奉天城全域が瓦礫の山になるまでそれほど時間はかからなかった。
砲撃中断を要請した石原は砲撃が中断したタイミングで低空飛行を行いより詳しい情報を得ようとするが、石原の搭乗機に対空射撃を行う余力がある残存兵はどこにもいなかった。
これによって奉天を包囲していた関東軍は奉天に入城、瓦礫の山となっている奉天城の様相に驚きつつも残敵掃討を行うと8日未明には奉天の完全占領を宣言した。
9日には奉天郊外に臨時飛行場の設営が完了。所沢教導飛行団も移駐し、長春、吉林など未だ降伏していない諸都市への宣伝ビラ散布と敵情把握のための偵察飛行が繰り返されるのであった。




