開戦
皇紀2588年 8月7日 帝都東京
参謀本部から作戦行動準備完了との報告が総理官邸に入ったのが6日昼前のことであった。参謀本部からの報告によって正午過ぎに総理官邸において閣議が開始され、高橋是清内閣全閣僚が揃って夕刻に宮城へ参内し、内閣の責任において満州における軍事行動の開始を奏上したのであった。
高橋内閣は宮城から帰参した後、事変対策本部と称する実質的な大本営の設置を決定し、官邸内に連絡事務局を設置、内閣、外務省、内務省、大蔵省、商工省、鉄道省、陸軍省、参謀本部、海軍省、軍令部から人員を常駐させ、戦争指導を内閣が直轄して行う体制を築いた。また、アドバイザーとして軍事参議官が参加している。
これは、以前に軍事行動やむなしと参内奏上した際に、統帥権を内閣が代理執行することで責任を内閣が負うことを明確にしたことで政府が軍部の作戦行動を把握掌握することで戦争指導を確立するためであった。
これは東條-有坂枢軸に属する軍令部長鈴木貫太郎大将や商工省で影響力を発揮する岸信介ら革新官僚、元・現職の鉄道大臣経験者である後藤新平、仙石貢、そして初の文民軍部大臣である原敬らによる根回しによって実現したのである。
もっとも、その根回しの際には各省の利権争いを利用したこともあってごった煮の感があり、後に効率化を図る必要はあったが、それでも、政治による戦争指導への関与を行うためにはどうしても為さねばならないことの一つであったのだ。
これによって政府は政治的要求、行政的要求、国家運営上の要求を軍部の作戦に反映させることが可能となったのだ。つまり、軍部の都合だけで戦争を行うという、手段が目的と化した史実の失敗を少しでも食い止める策として講じているのだ。これは特に戦争指導に腐心した東條英機の念願でもあった。
彼は総理在任中、国家行政・総動員・生産力向上を取り仕切る上で、軍部の無茶苦茶な船舶割り当て要求で苦労していた。ガダルカナル攻防戦によって輸送船舶が逼迫すると陸海軍は政府に配船を要求、総理として軍部の要求には従えないとはっきりと否定を示したが、陸軍は配船を要求する参謀本部作戦部長田中新一中将と東條の側近である軍務局長佐藤賢了少将が殴り合いとなり、収まらない田中が東條に直談判に及び遂には「馬鹿野郎!」と叫ぶ始末となる。その後、参謀本部は田中を更迭することで東條に詫びを入れたが、結果的には配船要求を通すという事態になったのである。
その一件に際して東條はガダルカナル奪還の見込みなしと認識し、さっさと撤退させ戦線の縮小を考えていたが、それを政府の見解、方針として軍部に認めさせることが出来なかったのは、総理大臣、陸軍大臣には作戦について口を挟む資格がなかったからである。
その経験から、軍部の戦争ではなく、国家の戦争という枠組みに変える必要があると東條は根回しを続けていたのである。
東條の根回しと努力が実ったことで、戦争指導を軍部、内閣、行政が一緒になって行うというシステムが構築されたことは今後の戦争指導に大きく影響を与えるものとなるのであるが、それはまた別の話。
「満州における某重大事件の真相はいまだ不明にして、我が特使田中大将の生死も不明。満州に根付いた数十万同胞の安全も極めて根拠薄弱にして、頼りとすべき奉天軍閥も今や見る影なし。北満に至っては馬賊、匪賊が跳梁跋扈するに及び、我が帝国政府は忠勇無比なる皇軍兵士にその使命を全うせんことを望む」
高橋是清は総理官邸に集まった記者たちに宣言すると片手をあげ、振り下ろした。
「関東軍その他の皇軍は速やかに任務を果たすべし」




