手足を縛られた帝国政府
皇紀2588年 6月20日 帝都東京
相変わらずの梅雨空の帝都の朝は朝刊による世論工作で一日が始まった。
――満州某重大事件、未だ張作霖の生死不明、田中特使の安否も依然不明。
――動揺する満鉄附属地、居留民に出兵待望の声。
――邦人の生命財産の保護のために早期出兵望む声高まる。
朝日新聞、東京日日新聞、大阪毎日新聞など大手新聞社は声高に出兵を支持する主張を繰り広げ、ここ数日の扇動の効果か、市中の声も徐々に出兵待望論、即時出兵に傾きつつあった。
そんな中、読売新聞などの新聞社は淡々と事実のみを報じ、同時に欧米の論評を載せることで政治的中立を貫いていた。だが、同時に三大扇動新聞社と異なり、現地の詳しい情報などが読売新聞には掲載されており、中身がないが声だけ大きい三大新聞と異なる姿勢を示していた。
だが、世論とは移ろいゆくものであり、声高に叫ぶ者たちに引きずられて腰の重い政府への批判へと変わっていくのは自然の推移だと言える。
「世論は満州への出兵に傾いておる……だが、奉天軍閥が敵であるというわけでもなしに出兵など……」
総理大臣高橋是清は新聞を掲げながら並み居る閣僚に苦言を呈する。
「しかし、世論は張作霖の所業に鉄槌が下った今こそ討伐すべしという声が高まっており……」
「いや、そもそもだな、誰の仕業かもわからん今動いては我が帝国が犯人だとされかねない」
「陸軍はここのところ関東軍の強化に動いていたではないか、それこそ好機到来とばかりに出兵を望んでいるのは黒幕が陸軍だと言っている様なものだ」
「そうは言うが、関東軍の強化は支那情勢の悪化に合わせて行ったものではないか、それも政府の承認の下で……」
この三日間、繰り返される議論は収束する見込みのないそれだった。
彼らの誰一人張作霖爆殺など現時点で望んでいなかった。それが突然、誰かの意思で行われたのだから混乱するのは当然である。
皆腹の内で満州を抑える好機であるのはわかっている。
だが、今動くことは日本が張を排除したと認識すると誰の目にも明らかであり、動くに動けないという状況に陥っていたのだ。
「満鉄附属地の防衛にだけ出動するということではどうだろうか?」
「いや、それは偶発戦闘を招きかねない。それこそ、戦端を開くための工作だと疑われる」
「では、座視するというのか? こちらも田中特使が安否不明だというのにだぞ」
彼らに答えは出なかった。
出兵しなければ国民の信を失う。出兵すれば国際社会の不信を買う。あまりにもお膳立てが過ぎていたのだ。それゆえに安易に行動を起こせないのである。
「張学良に調査・捜査の協力を申し出て、様子を見るというのではどうだろうか? それからでも遅くはない」
「理屈はそうだが、そうしている間に邦人に被害が及ぶのではないのか?」
「いや、それこそ出兵の大義名分が出来るではないか。それで保障占領という形で……」
「そんな卑怯な真似を栄えある帝国陸軍にせよというのか!」
議論は四分五裂し一向にまとまらない。彼らにあるのは保身という文字が相応しく見えるが、実はそうでもない。
石原莞爾中佐率いる所沢教導飛行団の毒ガス爆撃と焼夷弾爆撃による徹底した殲滅戦があまりにも欧米においてセンセーショナルに報道されてしまったことで列強各国から自重を要請されていたからだ。
それゆえに安易に出兵を口に出来ないのである。
「もとはと言えば、石原中佐の殲滅爆撃が不味かったのだ。アレほど見事に殲滅戦をやったものだから、列強が我が国の戦力を過大評価しているのだ。それゆえ、出兵もままならんのだ」
「いや、そう言うが、アレのおかげで抗日ゲリラや反日行動が抑えられている側面があるのだから、彼らを非難するのは得策ではない」
「では、どうすればよいというのだ!」
結局、この日も帝国政府は時を無駄に過ごしてしまったのである。




