甘粕正彦とA機関
皇紀2588年 6月19日 帝都東京
堀三也の登場によって泰平組合の尾行者が退場した後の喫茶店にはビジネスマン風の欧米人が残り、有坂夫妻と対峙していた。
「泰平組合の方はまだまだ本職と違って扱いやすいけれど、あの方は本物ね」
有坂結奈は小声でそう言う。
「彼の目的は何だろうね?」
「さぁ、貴方がけしかけたのではなくて?」
お互いに牽制し合う時間が過ぎ、1時間もの間見えない火花を散らせ続けた結果、追跡者が根負けたした形で喫茶店を後にした。
尾行して得られるものもあるが、それだけがスパイの役割ではない。
派手に動いて見せ担当する者もいれば、アクティブ班の行動による結果を観察し続け対象の反応を探るパッシブ班も存在する。
有坂夫妻が泰平組合を追い返したという反応を観察しているものもまた存在しているはずなのだ。
「今後はより注意深く行動しないといけないね」
有坂総一郎は気楽そうにそう言ったが、結奈はそれに不満そうな表情を浮かべる。
「注意深くですって? 旦那様にそんな器用な芸当が出来ますの? 今日も全然気付いていなかったのに注意深くも何もないと思いますけれど」
「結奈には伝えていなかったけれど、大丈夫な理由があるんだ。さて、長居したし出ようか……ここでは話せないしね」
総一郎は立ち上がると伝票を持ち会計に向かう。その際にVサインをチラッと見せる。
店を出ると道端にはいくつも大きな水たまりが出来ていた。
「どうやらお茶をしている間に雨が降ったようだね」
「あそこに見える濡れ鼠方は……あの方のお仲間なのかしらね?」
総一郎は路肩に停車している黒塗りのフォードの方を見やる。
「そうかもしれないね。ちなみにあの車に乗っている人たちは味方だよ」
「味方というと……」
「あれはA機関の人たち。甘粕さんって覚えているかな? 震災の時にアカ狩りしたあの人」
「ええ、覚えていますけれど……あの方釈放されましたの?」
「あぁ、随分前にね。釈放されて特務機関を作ってもらっていたんだけれどね。甘粕さんとその元部下や一部のヤクザ、任侠、博徒を組み込んで編制した組織なんだよ。無論、色々と手を回したけれどね」
A機関……甘粕正彦予備役大尉を機関長とし、憲兵、警官、ヤクザ、任侠、博徒を懐柔して組み込んだ彼らは非合法活動を行うための非公式組織だ。
泰平組合(昭和通商)が表向きのフロント企業であるならば、A機関は裏向きの仕事を請け負う組織である。その主な役割は諜報であるが、その工作資金を調達するために阿片の密売や密貿易なども手掛けている。
「ヤクザ、任侠、博徒って……よくまとめ上げましたね?」
「彼らとて好き好んで裏稼業に手を染めてるわけじゃないさ、だったら足を洗う手助けをする代わりにその裏稼業のノウハウを活かして国家と臣民に役立ってもらおうってことだよ」
「……いつの間にそんなことをしていましたの?」
「一昨年の10月くらいからかな……ようやく形が整ったのだよ。これから満州や支那で活躍してもらう予定だよ」
「呆れましたわ……私たちが安眠しているすぐそばで秘密組織同士の暗闘があったということになるのね……はぁ……」
結奈の溜息には諦めと呆れが混じり合ってそれは見事なものだった。




