満州某重大事件
皇紀2588年 6月18日 満州 遼寧省 奉天
孔子廟協定によって暫定的に北洋政府と国民政府の境界線が定まったことで張作霖は満州方面の問題解決のために北京から奉天へと専用列車にて移動していた。
史実に遅れること2週間である。
この時の大日本帝国の張作霖に対する態度は史実とそれほど大きくは違いはなかった。満州における権益を侵害するという問題行動を起こしているが、北洋政府及び満州の執政を行うものとしてそれなりに重視はしていた。
しかし、帝国政府とその周辺には張の排除を検討している者は多く居た。その機会がない、大義名分がないということで自重しているが、排除の手段は検討され、その後継者として据えるべき人物も取り込むという段取りそのものは出来ていたのである。
もっとも、その思惑こそ同じであれど異なる勢力がそれぞれに画策しているというもので、国策として実行されるには至っていなかった。その代表格が東條-有坂枢軸と皇道派だ。
皇道派は陸軍参謀本部を根城にし、東條-有坂枢軸は財界や官庁を根城にしていた。彼らの思想的対決は未だ発生はしていなかったが、明らかに見ている方向性は異なっていた。ただ、張の排除という目的は一致していた。
それゆえに問題はややこしくなっていたのだ。
参謀本部において荒木貞夫中将と永田鉄山大佐は関東軍の武藤信義大将と水面下で連携しつつ関東軍の戦力強化と遊撃戦力の拡充展開を図っていた。
装甲列車、列車砲の独立兵団化と朝鮮・平壌への前進待機、同様に浦塩への展開が進められていた。また、量産が開始されたばかりの八八式中戦車と兵員輸送車を核とする機動装甲師団の関東軍への配備などである。
これらによって明らかに満州へなだれ込む準備は進んでいたのだ。特に電撃戦を可能とする装甲列車と機動装甲師団には大きな期待がかけられていた。
日本側の戦備が整うにしたがって張軍閥の臨戦態勢も徐々にそのレベルを上げていた。もっとも、その矛先は関東軍や浦塩派遣軍、朝鮮軍へ向けられているモノではなく、外蒙古や北西満州で蠢くソ連に対してであったが。
「日本の軍備強化を材料にソ連への圧力として何とか交渉をまとめねば……」
車窓に流れる満州の大平原を眺めつつ張は呟く。
彼は今まで日本側が提案している日満ソ会談に乗り気ではなかった。いくら提案してきている人物が公私に渡って付き合いのある田中義一退役大将であってもだ。
だが、田中は何度断っても張に会談の申し込みを繰り返した。拒む張を口説き落とすために田中は北京にまで乗り込んできて直に説得を行うにまで至っていた。
その甲斐もあって張は重い腰を上げ会談に臨む気になったのだ。
「ソ連など何れ満州から追い出して見せるが、今はまだその時期ではない。中原で蒋介石に勝ったとはいえ、あれは痛み分けでしかない。黄河決壊で河南と直隷に被害が及んでおるのだからそれの後始末もせねばならん……まずは足元を固めるまでの時間稼ぎだ」
張も一介の武人から伸し上がった人物だ。利用出来るものは利用するし、機を見る能力も長けている。故に清朝末期からの混乱の時期に軍閥を率い、北洋政府を主宰するにまでなったのだ。根城の満州においても自らの権力基盤を強固にする日米を手玉に取っていた。
車窓に奉天の外壁が見え、機関車の汽笛が鳴り響く。
「まずは奉天で軍勢を再編し、長春へ向かい、そこで田中の用意した席に着こう……あとはそこからだ……」
その時だった……。先頭の機関車が大爆発を起こし急停車したことで専用列車は脱線転覆したのである。
20両にも及ぶ長編成であったことと比較的後方に位置していたこともあり、張が乗車していた車両は脱線した程度で大きな損傷はなかった。
急停車と脱線の影響で投げ出され側壁に強かに体を打ち付けたが張に大きな怪我はなかった。
「誰かある! 何事だ! 状況を報告せよ!」
張が叫ぶと数名の兵士が駆け付けた。
「列車が脱線した模様です……先頭の機関車が突然大爆発を起こしまして……先頭方向の車両にいた者は死者多数……残った者たちは救護を行っております……後方の車両で無事だったものは周囲の警戒を……」
その瞬間、銃撃音が響き渡る。
明らかに機関銃などによる攻撃だった。
「応戦しろ! 敵が何者か、必ず暴け!」
張はそう言うと兵を連れて車両から出て退避しようとしたが失敗した。
彼がドアから出たその瞬間、暗闇からマズルフラッシュが見えたと同時に彼の体は蜂の巣となったのである。




