孔子廟協定
皇紀2588年 6月7日 支那 山東省 曲阜 孔子廟
列強連合軍による北伐軍征南軍の殲滅によって突進力を失った北伐軍は曲阜において停戦協定の締結を提案、同地において交渉を行うことを列強連合軍、北洋政府に申し出てきた。
当初、北洋政府はこの提案を突っぱねるつもりであったが、いい加減に支那情勢を落ち着かせたい列強は痛み分けによる内戦の中断を強硬に主張し、これを受け入れるしかなくなった。無論、これはソ連の満州、外蒙古における活発な行動によって後方が脅かされたことも後押しした理由の一つである。
北伐軍を食い止めるために直隷軍閥、北西軍閥は察哈爾省、綏遠省などから兵力を抽出したことでこの周辺における軍事的空白が発生し、それに伴って蒙古統一を目論む外蒙古のモンゴル人民共和国とそれを後ろ盾するソ連の南下が活発化していたのである。
特に中原付近からの追撃を行おうとした西北軍閥は西安に兵力を移動させ、南下しようとした矢先のことであったため綏遠省へ戻さざるを得なかった。
そして北洋政府を主宰する張作霖もお膝元の満州にソ連が圧力を強めてきたこともあり日本側から再三提案があった日満ソ暫定和平会談に応じる必要が出てきたのだ。
これによって支那大陸各方面における戦火は一応収束に向かっていったのであるが、当事者たちである支那各政府にとっては次なる戦の準備期間と割り切っていた。
北伐軍の蒋介石は膠州の殲滅戦の状況把握も出来ないままであったが、有力な攻勢の背骨が折られてしまったことよりも、有力な軍閥の指導者層が軒並み戦死したことで華中における自身の政治的軍事的指導力の向上につながった方が逆に利益となっていた。
「たかだか数万の兵が消えたとて大したことはない。動員を掛ければ兵はいくらでもいる。革命は愛国者の血によって成し遂げられるのだからな……。だが、列強は良い仕事をしてくれた。これで私に敵対する可能性がある軍閥指導者が軒並み消えたのだからな。かえってやりやすくなった。感謝せねばな」
副官にそう漏らす蒋であったが、実際には兵力に余裕がないのは変わらない事実であり、この交渉を早くまとめて武漢のアカどもとの決戦の準備を急ぎたいという意図も見え隠れしていた。
「北の連中は当分は満州と外蒙古のソ連に釘付けになる……中原を諦めさえすれば肥沃な華中を拠点に再起は図れる。問題は武漢三鎮のアカどもだ……連中を早く始末せねば再びこの命を狙われかねん」
だが、彼は他にも問題を抱えていたのだ。
黄河決壊による黄河の流れが変わったのだ。黄河の本流は鄭州から南東へ下り淮河と繋がりさらに下流にも洪水を引き起こして最終的には長江と結合したのである。この結果、今も流域には洪水が頻発しその被害は拡大傾向にあった。無論、流量が大きくなった長江流域もその被害を受けつつあったのだ。
もっとも、黄河の旧流域は洪水被害がなくなった代わりに河床は干上がり田畑は乾燥し水飢饉が想定されている。
いずれにせよ、支那の政治勢力はこれによって支那人民の支持を失ったのは間違いない事実であった。
その後、曲阜は孔子廟において開催された孔子廟協定において、北洋政府の統治区域は山東省、河南省、直隷省、山西省、察哈爾省、綏遠省、熱河省、遼寧省、吉林省、黒龍江省とされた。また、国民政府の統治区域は江蘇省、浙江省、安徽省、福建省、江西省、広東省とされた。
また、列強連合軍は北京、天津、青島、済南、上海、南京、武漢三鎮などの列強権益の保全と尊重を相互に確約させることとし、支那人の列強権益侵害は一切認めないことが明記され、これに違反した場合、列強が報復に出ることが確認された。列強各国が以前に結んだ条約や協定もまた従前通りの継続と順守が求められたのである。
広州からの北伐、タングステンショックから始まる一連の支那動乱はこれにおいて収束したが各地に燻る火種はこれが一時的なものであることを物語っていた。




