第一次中原大戦
皇紀2588年 5月3日 支那 中原
蒋介石率いる北伐軍は4月後半、4個軍13個師団相当の戦力で北伐を開始。一路河南省を目指し侵攻を開始した。
対する北洋政府に従う山西軍閥、直隷軍閥、西北軍閥は中原に兵を進め迎え撃つ構えを見せる。率いるのは山西軍閥の閻錫山と西北軍閥の馮玉祥、直隷軍閥の呉佩孚である。
史実では山西軍閥、西北軍閥は27年までの時点で蒋介石の傘下に降っていたのであるが、この世界では蒋と列強の対立という問題があったことから与するのを躊躇い張作霖率いる奉天軍閥と同盟を結んだままであった。
いや、彼らは史実よりも自勢力の拡大を狙い、積極的に北洋政府として一体的に行動していた。それもあって蒋との融和などという可能性は低く、西北軍閥の馮に至っては赤化勢力である武漢政府を支援し、蒋の後方を脅かすという三国志の様な様相を呈していた。
もっとも、彼らは北方では外蒙古ことモンゴル人民共和国やその後ろ盾であるソ連とも対立しているから四方八方で敵だらけという状態は北伐軍を率いる蒋だけが抱える構図というわけではなかったが。
4月19日、北伐軍中央軍は南京を出撃すると一路江蘇省徐州を目指し、山東省に迫るかのように見せたが23日に突如西進を開始、河南省鄭州へ繋がる隴海線に沿って開封へ進撃したのである。
決戦場は山東省泰山近辺となると踏んで済南南方に布陣していた直隷軍閥は肩透かしを食らった形となり、後詰として河南省安陽へ移動を開始した。しかし、兵を退いた直後の28日に山東省臨沂に突如敵が現れ陥落したという報が入ったのである。
同日、開封において攻城戦が始まり、ここに蒋の軍旗が翻っていたことから臨沂の敵は湖南省の征討に向かっていた北伐軍征南軍であることが確認されたのである。
蒋は自身に従わない湖南省の軍閥を征討すると見せ掛け、実際に江西省南昌まで征南軍を移動させていたが、武漢政府、北洋政府の目が引き付けられたことを確認するとすぐさま南京に兵を戻していたのだ。
無論、一部の兵はそのまま湖南省に入り長沙近辺の確保を行い、周辺の掃討を行っている。そのため、兵力の移動は隠蔽出来ていたのである。
突如現れた征南軍に対応するため、開封付近に集結するはずだった北洋政府軍は兵力不足に陥り、包囲戦を仕掛けることが出来ずにいたのだが……ある参謀の提案が採用され、それが実行されるに至った。




