中島飛行機の挑戦
皇紀2588年 4月3日 支那山東省 青島郊外
所沢教導飛行団が受領したばかりの試作機という名の実質的な量産機である仮称九一式戦闘機は予備機も含めて15機が青島郊外の飛行場に翼を並べている。
上空で旋回飛行、模擬戦闘飛行を繰り広げている甲式四型戦闘機の複葉機とは違い、単葉高翼(パラソル翼)、機体は全金属であり、翼はニッケル・クロム・モリブデン鋼の桁を採用している。
主翼の強化は現在も中島飛行機によって随時検討され実験が継続されているが、青島に配備されたそれには反映されていない。これは新型機の早急な配備の必要性を求められた陸軍側の都合で一定の水準を超えていることによって前線配備し戦闘飛行によるデータ収集が優先と判断され、今後三次拡大試作にフィードバックされる予定であるからだ。
中島飛行機社長の中島知久平は海軍の試製三式艦上戦闘機の開発と同時に仮称九一式戦闘機の開発を進めていたが、試製三式艦上戦闘機には従来通りの複葉機での設計を行っていたが、仮称九一式戦闘機には単葉機開発とどちらかと言えば新技術を陸軍機開発に投入したのだ。
結果、単純比較してはならないが、速度でも航続距離でも圧倒的に優勢な戦闘機が出来上がったのである。陸軍当局は中島飛行機からの試製三式艦上戦闘機のカタログデータを得てその差に愕然とし、事実上の量産指示と制式化の内定を得ていたのだ。
特に陸軍の技官たちは中島飛行機が開発した寿発動機の性能に驚きを見せていた。整備性の良いエンジンであり、図示やイラストの多い整備マニュアルによって整備員や搭乗員が熟練でなくても一定の水準で機能するようになっていた。
これは中島飛行機が熟練工員と新米工員を用いて実験した結果によって技量、熟練度の違いで性能が一変するのでは工業製品、特に軍人の蛮用に耐えれないと考えた末に熟練工員でも新米工員でも概ね同水準の整備結果となる様に工夫したのである。
「中島さん、あなたの会社の製品は素晴らしいけれど、使う側がまともに整備出来る様に手を打たないと性能を引き出せずに役に立たないと誹りを受けますよ……鉄道省から時折苦情があるんです。中島のトラックは馬力も大きくて魅力的だけど、整備士の腕が悪いと全然使えない……って……その鉄道省の自動車事業所の一部が整備手本を作ったそうですが、それが非常に良く出来ていて、その部署のトラックは故障率が低下しただけでなく、馬力や燃費も向上したというそうです」
有坂総一郎は中島に会った際にそう伝えていたのである。
元々は、史実の四式戦闘機”疾風”を装備した飛行47戦隊の逸話を基にでっち上げたものであるが、実際に鉄道省で整備性や馬力の低下などの問題が多発し、それによって機関区の整備士たちのそれを見習い自前で整備マニュアルや整備・運行管理を行い定期的な分解、オーバーホールを実施することで性能の維持を図っていたのだ。
鉄道省での話を耳にした総一郎は中島にそれを伝え、実際に鉄道省のトラックターミナルへ行き、そこにおける整備の実態を視察したのである。
「有坂君、あんたの言っていたことは確かだった。出荷してしまえばそこまでだが、確かに我が帝国は至る所で職人芸に頼っている部分が多い……我が社も自動化と大規模化、流れ作業では先進的であるが……それでも職人芸が幅を利かせている……盲点だったよ……」
中島はそう言って、再度鉄道省へ幹部や技師を派遣し、現場の整備の実態を学ばせ、それを早速取り入れたのであった。
これによって史実における中島飛行機の発動機の大きな欠陥であった整備士泣かせという問題を根っこから改善することが出来たのである。だが、それによって大きな利益を得たのはユーザーである陸軍や鉄道省であったのだ。
整備性の向上とマニュアル化、規格化された部品の大量供給によって稼働率の向上、故障率の低下という形で現れたのである。また、整備の質が向上することでカタログスペックに近い性能を示すこととなり、中島飛行機への信頼が向上したのであった。




