アンモニア合成事業
皇紀2582年6月3日 神戸
三八式実包増産内定という情報を陸軍技術本部から入手した有坂総一郎は帝都東京を後にし、一路神戸を目指した。
彼が神戸に赴く理由はただ一つ。アンモニアの効率的生産である。
ドイツからの戦後賠償によってハーバー・ボッシュ法の特許を得た帝国政府は、民間企業へこれを交付しアンモニア量産確立を促そうとしていた。
だが、史実において、ハーバー・ボッシュ法の総元締めであるIG・ファルベンは技術供与や視察、見学などに激しい拒否反応を示し、実用化に大きく悪影響していた。
ハーバー・ボッシュ法では、日本国内でも多く産出される褐炭を利用することが出来、大規模化すれば採算が合うだけに早期の実用化を特許交付された企業は悪戦苦闘していた。
この時期、アンモニア合成工業はまだ産声を上げたばかりであった。
そして、総一郎が赴く先もまたそのアンモニア合成工業に手を挙げていた企業であり、その企業を鈴木商店という。
鈴木商店と言えば、歴史の教科書にもその名が記される三菱、三井と並ぶ総合商社、貿易会社であり、欧州大戦において急成長を遂げた新興企業である。しかし、台湾銀行の取り付け騒ぎによる取引停止によって破綻してしまった。が、鈴木商店の遺伝子を継ぐ企業は今も多く残っている。
その鈴木商店を指導する人物、金子直吉に総一郎は面会を申し入れていたのである。
東京駅から乗ってきた特別急行を神戸駅で下車し駅前に停まっているタクシーに乗り、途中、遠回りさせ神戸の港湾施設などを車窓から眺め、海岸通りの鈴木商店本店ビルに彼は乗り付けた。
受付嬢に取次ぎを依頼するとすぐに確認が取れたらしく、そのまま彼女に案内され応接室へ通された。
「はるばる帝都から……遠いところよくお越し下さった。私が金子直吉です」
丸眼鏡の人懐っこい中年の男は挨拶すると手を差し出してきた。
「お忙しいところ、時間をつくって頂き感謝致します……帝都有坂重工業の有坂総一郎と申します」
差し出された手を握り返して挨拶をすると金子は席に掛けるようにすすめてくれた。
「さて、帝都からお越しの御用件ですが……アンモニア合成技術とその辺りのお話と伺っておりますが……」
「左様です。そして、御社のアンモニア合成事業へ出資させていただきたく参上した次第」
金子は目を細めて総一郎の顔色を窺う様に言った。
「出資ですか、それはありがたいお話ですが、私共は御社のことをよく知りません。ですので、今の時点では色よいお返事は致しかねますなぁ」
「真に御尤も……。ですが、御社の台所事情を察しての申し出とお考えいただいて結構です。御社を手助けすることが、弊社の、いえ、帝国の未来のためになると……こう考えての出資なのです」
金子はさらに目を細めた。
「弊社の台所事情ですか、それはご心配いただく必要などございません……順風満帆そのもの……しかし、その出資話が帝国の未来のためとは大きな物言いですな……有坂さんはまだお若い……それは大言壮語というものであると老婆心ながら御忠告致しましょうか」
金子は細めていた目を緩め、出会ったとき同様の人懐っこい表情に戻っていた。
「御忠告、肝に銘じましょう……」
「ふむ、素直ですな……が、その齢であの不況時に不採算企業を買収合併させ、今や陸軍と深いつながりをお持ちだそうですが……その手腕は評価せねばなりませんな」
「ありがたいことです……」
「して、弊社の事業に目を付けた理由をお聞きしましょう、出資のお話は抜きで……」
「では、それは別として、お話させていただきましょう」
ビジネスの話ではないという前提にしてから彼はビジネスの話をするという方針のようだ。
「三菱などが事業しておりますハーバー・ボッシュ法は、ドイツ側のIG・ファルベンの妨害によって実用化が遅れると見込まれております……また、御社の取得しようとしているクロード法は高圧という条件が難題ではありますが、ハーバー・ボッシュ法よりも生成量が2倍前後と見込まれています」
「ええ、よくお勉強されておりますな……その通りです。ハーバー・ボッシュ法よりもクロード法はその点で優れており、弊社は山口の彦島で実証実験をやって数年内に実用化という目算を立てております」
「ですが、クロード法と似た方式でカザレー法という方式を日本窒素肥料を率いる野口遵史が宮崎の延岡で実用化しようとしているとも伺っております」
金子は眉間にしわを寄せながら頷いた。
「確かに、その件は私どもも聞き及んでおります。クロード法が1000気圧に対してカザレー法は700気圧程度だとか……成功すれば扱いやすいでしょうな」
「ですが、延岡では水利は兎も角、石炭供給という点で少し不利です。対して、彦島は大嶺炭鉱、筑豊炭鉱からほど近い……水利は最悪ダム建設でなんとか出来るでしょう」
「仰る通りですな……」
「そして、クロード法はそれそのものはアンモニア合成が主目的となりましょうが、その蓄積された技術は化学技術……あぁ、バケガクの方ですよ……の蓄積にもつながるはずです……ゆえに将来性があると認識しております」
「なるほど……それで出資と?」
「左様です」
金子は暫く目を閉じ、沈黙した。
彼が何を考えているかはわからないが、少なくとも出資話に否定的ではないと思われる……。
「有坂さん、この話、日本窒素肥料にはしておるのですかな?」
「いえ、まだ。御社が拒まれるのであれば、別ですが……」
「弊社の主だった者と検討したうえで御返事させていただきたい……場合によっては……野口氏ですか、その方も交えてお話をする機会があるやもしれません」
彼の申し出は総一郎にとっては想定外だった。
「ですが、宜しいのですか?」
「私は愛国者なのですよ……ただ一企業の利益追求者というわけではありません……有坂さんは帝国の未来のためになる……と申されたでしょう? ならば、利益だけを求めるわけにはいきません」
「ならば、私もその姿勢を見習うと致しましょう」
二人は再び固く握手をした。
二人の会見は後日実を結び、有坂重工業は鈴木商店に多額の出資を行い、同時に鈴木商店はアンモニア合成事業を独立させ、日本窒素肥料のアンモニア合成事業と合併させるという大きな結果につながるのであった。