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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2588年(1928年)

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広瀬鉄道の開業

皇紀2588年(1928年) 2月11日 島根県 能義郡


 紀元節を祝すこの日に広瀬鉄道が正式に開業した。


 年明けには全線開通し、試運転と公開運転が行われて順次営業運転を行う準備を整えていた。全線開通に先立ち、一部区間は先行開業し、フォード・ジャパンの山陰工場の専用線という形で運行を開始してその運賃収入によって利益を得ることで建設資金を確保し、当初の単線非電化の予定だったそれを全線複線電化による高頻度運転を可能とした状態での開業を目指して建設がすすめられたのである。


 フォード・ジャパンによる安定した貨物運賃収入が確保出来たことは広瀬鉄道にとっても経営環境に大きく影響を与えていたのだ。


 地元有志による地域振興という目的で建設を打診したころと違い、財務基盤がしっかりしたことと地域の雇用安定は地元を離れ大都市への人口流出を食い止めることに大きく寄与したのであるが、それと同時に鮎川義介率いる日産コンツェルン系列の安来製鋼所や関係企業に多くの発注が入ることとなった。


 有坂総一郎と鮎川はフォード・ジャパンのノック・ダウン生産体制から周辺地域への部品供給、最終的には完全国産化へと持ち込むためにあらゆる施策を打ち出し、それの受け皿として安来製鋼所の生産規模の拡大と品質管理による量産体制を確立していたのである。


 また、合金の研究を安来製鋼所で集中して行うために日本各地から研究者を募った。これには将来的な投資の意味合いが強いが、史実においてネー20ジェットエンジンの深刻な問題の解決を齎した小柴定雄博士のような人材を集め、高品質の特殊鋼、特殊金属を開発し、それを基に、低品質である各種部品の底上げを図るというものだ。


 そのためには量産規格品である自動車産業と関連付けることで実力を付けさせることが手っ取り早いと両名が合意し、手を回したことで実現を見たのである。


 もっとも、鮎川は転生者ではない……と総一郎は思っている……ために具体的な話はしていないため、ベアリングなど他産業にも応用が可能なものを例として話していたのではあるが。


 彼らの思惑が裏で進行しつつも、地元の鉄道期成会の面々は各方面で鉄道実現に向けて努力し、資金集めや産業の育成、私学校の設立などを行うことで地元から人材が離れないように創意工夫を行っていたが、彼らの動きは短期的な面ではすぐには影響を与えないだろうが、確実に後の世に影響を与えるものであり、史実の様な衰退を見せることはなかった。


 とは言っても、後年のモータリゼーションによる鉄道の影響力低下は免れなかったが、高頻度運転による利便性が鉄道の廃止を食い止めたのは言うまでもない。


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