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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2587年(1927年)

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とある物理学者の死

皇紀2587年(1927年) 11月5日 ローマ


 史実では9月末に蒋介石が来日し、支那国家統一について日本側の協力を依頼するということもあったが、この世界では蒋率いる北伐軍と列強の相互不信は継続し、穏やかな内戦状態が継続していた。武漢赤化政府と南京北伐政府の勢力圏争いは小競り合いという形で継続し、北京北洋政府はソ連と対峙するため南京北伐政府とは冷戦状態であるが目立った衝突は起こしていなかった。


 そんな27年の秋は深まり11月。


 ローマ大学で教鞭をとり、若くして物理学理論を完成させた人物がいた。彼の名をエンリコ・フェルミという。26年に「フェルミ統計」に関する理論を発表して世界的な名声を得た彼であるが、11月4日に彼は不幸にして天寿を全うすることなく世を去った。


 史実であれば彼はマンハッタン計画に係わり、原爆開発を主導する人物の一人であった。だが、ローマ市内での交通事故によって彼は余命を残しつつ死を迎えた。


 それは偶然であったのか、それとも仕組まれていたかはわからない。


 だが、確実に言えることは暴走して突っ込んできた自動車から彼のユダヤ人の妻を庇おうとして撥ねられ頭を強打し、その翌5日に息を引き取ったということだ。


 彼が息を引き取った2時間後にイタリア首相であるベニト・ムッソリーニは彼の自宅を弔問し、その後、ラジオ番組に出演、彼の死を悼んだ。


「我が国は将来のノーベル賞候補を失った……これは痛ましいことであり哀惜の念に堪えない。私はイタリア国統領として我が国の科学者諸君に彼の遺志を継ぐことを切に願うものである。我がイタリアはかけがえのない一人の優秀な科学者を失った。だが、彼は死をもって残された科学者たちに結集と国家へ、ファシスト党へ奉仕することを示したと言えるだろう」


 ムッソリーニは彼の死を最大限に利用することで国内の統一を図り、彼が推し進める中央集権化、ファシスト党一党独裁体制への翼賛に寄与させることを思いついたのである。


 このムッソリーニの演説とそれを支持し、多くの弔問客がフェルミの自宅を訪れ、彼の死を悼んだが、それは彼にとっては望んだことであったとは思えないが、結果としてムッソリーニとファシスト党の支持を押し上げ、イタリア国家の精神的統合に役立ったのは間違いなかった。

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