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この身は露と消えても……とある転生者たちの戦争準備《ノスタルジー》  作者: 有坂総一郎
皇紀2587年(1927年)

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装甲列車

皇紀2587年(1927年)6月27日 神奈川県 箱根


 有坂総一郎の指示の下、別室から運び込まれた台車には二つのモノが載っていた。


「さて、皆様方、我が社が陸軍の兵器局や技術本部と共同で秘密裏に開発している……資金は我が社が出しておりまして国庫からの流用ということはありません……装甲列車と列車砲です。満州での迅速な兵器輸送手段は鉄道であり、その鉄道を用いての戦線突破、敵縦深陣地への遠距離攻撃が可能なのはこれしかありません」


 総一郎はそう言うと資料を見る様に促す。


「装甲列車には装甲を張り付けてあり、これによって敵の機関銃程度ならば余裕で跳ね返せるようになっております。同時に完全武装の兵士を2個大隊程度は1編成で輸送可能であり、3編成も投入すれば2個連隊程度の兵員を高速で敵戦線の内側に投入することが出来るものです」


 装甲列車……史実では33年に完成した臨時装甲列車、34年に制式採用された九四式装甲列車が日本にはある。元々、シベリア出兵の折に装甲列車の必要性を痛感していたが帝国陸軍はこれの研究を熱心には行っていなかった。


 後に済南事件や満州事変において現地調達の急造仕立てで装甲列車を臨時で仕立ててはいたが、あくまで臨時でその場限りのモノであり、永続利用するようなものではなかった。


 だが、満鉄は自社権益の保護のため、若干の武装を施した自前の装甲列車を有しており、陸軍の意見を参考にはしていたが、何れも陸軍が主体的に開発したものではなかった。


 しかし、満州事変によってやはり装甲列車の必要性を認識した陸軍は技術本部や兵器廠を中心として満鉄に人員を派遣し、ここで製造を開始したのである。これが臨時装甲列車であった。


 車両側を満鉄が用意し、兵装は陸軍が用意するという共同作業によってこれは成り立ち、試験運用を経て満鉄で増産が行われ、各装甲列車隊に配置され、支那大陸の警備に運用されることとなったのである。


 だが、その臨時装甲列車も不慣れな設計や運用経験の乏しさなどが主因による欠陥があった。これを改善する意味もあり、制式装備としての装甲列車の開発が行われ翌34年に完成する。九四式装甲列車である。


 砲塔形式の砲を有し、これによって全周警戒と全方位攻撃が可能である。また、各車ともに重機関銃の配置があり、これによって接近する敵歩兵集団への対応も可能なまさに移動要塞といえるものであった。


「これは元々シベリア出兵での戦訓から開発を急ぐように技術本部や兵器局に働きかけており、当局は理解を示し、協力していただいておりましたが、陸軍上層部の反応が鈍いこともあり、自主的に開発を進めてきたものです。時速60~100kmで走行し、無補給で200km程度は行動可能であり、また速射砲を据え付けていることで敵の重砲攻撃にも十分に対応可能であり、敵中孤立してもある程度は持ちこたえることが可能です」


 総一郎は装甲列車という中二病的な浪漫に酔っているかのようだった。

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