大命降下、高橋是清内閣成立
皇紀2587年4月21日 帝都東京
与野党がそれぞれの思惑で動いていたその翌18日、突如として立憲政友会が与党からの離脱を表明した。
この事態に田中義一率いる政友本党は時機が来たと狂喜乱舞し、組閣工作のため鳩山一郎、鈴木喜三郎鈴木喜三郎ら幹部は東奔西走したのであった。だが、彼らの工作は実ることはなかった。
20日、若槻内閣は総辞職すると田中は大命降下を予想し、宮城参内の用意をして待っていたが、彼にその知らせは届くことはなかったのである。
この事態に田中は驚き、翌21日早朝に主だった幹部を自邸へ招集し事態の把握に努めたのである。
「これは一体どうなっているのだ! おらに大命降下するはずではなかったのか?」
田中の狼狽は尤もである。
本来であれば、政友本党116議席は野党第一党であり、憲政の常道の原則から大命が降下するのは政友本党総裁である田中であった。
だが、彼らが掴んでいない情報があったのだ。18日の時点で立憲政友会100議席が与党から離脱したまでは彼らの思惑通りに事は進んでいたのである。しかし、20日の内閣総辞職までの間に立憲政友会の議席数が急増していたのである。
この議席はどこから来たのか?
18日時点での議席構成は憲政会151、立憲政友会100、政友本党116、革新倶楽部30、無所属67という数字だった。だが、20日までの間に議席構成は激変していたのである。
これが仙石貢の献策である憲政会と立憲政友会の合体の一環だったのである。
20日の総辞職時点での議席構成は以下の通り。
憲政会151⇒51
立憲政友会100⇒220(憲政会からの合流、無所属の合流)
政友本党116⇒176(革新倶楽部の合流、無所属の合流)
革新倶楽部30⇒0(政友本党への合流で解散)
無所属67⇒17
政友本党の田中、鳩山、鈴木らの多数派工作は一定の成功を見ていたのだ。革新倶楽部の合流や無所属の取り込みで18日時点での憲政会の議席を超える数を確保して盤石なものとなっていた。
だが、若槻が総辞職した時点で既に立憲政友会が200議席を超える議席数を確保し、野党第一党に膨れ上がっていたのである。
この議会の構成が激変していたことに気付いたとき、政友本党の幹部は悔しさを隠し切れないでいたのだ。
結果、元老西園寺公望公爵は立憲政友会の総裁である高橋是清を推挙、昭和天皇もこれを認め、彼に大命が下ったのである。
高橋是清内閣
総理大臣 高橋是清 子爵 立憲政友会
大蔵大臣 濱口雄幸 憲政会
外務大臣 森恪 立憲政友会
内務大臣 後藤新平 立憲政友会
陸軍大臣 宇垣一成 陸軍大将
海軍大臣 大角岑生 海軍中将
司法大臣 小川平吉 立憲政友会
文部大臣 水野錬太郎 立憲政友会
商工大臣 高橋是清 子爵 立憲政友会
農林大臣 町田忠治 憲政会
逓信大臣 久原房之助 立憲政友会
鉄道大臣 仙石貢 憲政会




