国際社会という名の強者の論理
皇紀2587年4月11日 支那 上海
4月7日、上海に英帝国使節団が上陸した。
大英帝国外務大臣オースティン・チェンバレン、大蔵大臣兼支那問題担当大臣ウィンストン・チャーチルを首席とする一団は大英帝国総領事館に陣取ると各国の総領事を招聘し、今後の方針について協議を重ねた。数日前に出された各国バラバラな要求ではなく、列強としての正式な最後通牒を出すためだ。
連日の協議において支那権益を有する日英米仏伊の5ヶ国は協調して支那における動乱に対処すると9日に共同声明が出され、同時に各国には兵員の増強、艦隊の増派が求められた。この共同声明が出された直後、大日本帝国の前外務大臣である幣原喜重郎男爵は声明を出すのであった。
「列強各国は支那に対し、最後通牒を突きつけることなく、協調と友愛の精神で問題解決を図ることを要請する。軍の派兵による砲艦外交などもってのほかであり、それはパリ不戦条約に抵触する恐れがある。支那の主権を尊重しつつ、列強は自己都合を押し付けることなく交渉すべきである」
幣原の声明は欧米世論に非常に有効に機能したと言える。欧州大戦が終わってから10年も経っていない中で厭戦気分も蔓延している欧州各国にはこの声明は非常に良く受けた。だが、国家指導者層にはそれはただの無責任な主張にしか聞こえなかった。
「幣原男爵の楽観主義は救いがたい。斯様な無責任な声明など検討にも値しない。各国とも同様な反応だろう」
上海でこの声明を受け取ったチェンバレンは即座にそう切り捨てた。
チェンバレンも出来ることならば軍事力による解決という結末にはしたくはない非戦論者ではあるが、その非戦論者からも蔑視される理想論な話だった。
現地では上海租界を囲む防壁の外には蒋介石の北伐軍が展開し、租界に立て籠もる列強派遣軍と睨み合っている。また、上海沖には日英米の艦隊が遊弋、仏艦隊も台湾海峡を航行中であり、情勢如何では艦隊による艦砲射撃と上陸作戦も実施されるという状況だ。
それだけでなく、北京北洋政府を主導する張作霖は6日にソヴィエト連邦大使館を急襲し、これを制圧し、ソ連が南京事件に関わった証拠を押収している。
南京で列強の総領事館他を襲撃した勢力は武漢に逃れた共産党主導の武漢国民政府が秘密裏に潜ませていたゲリラやパルチザンであり、これを主導したのがソ連から派遣されていた軍事顧問団であったのだ。
「比較的早期に軍事力展開が出来る日本には手出しを控え、他の列強には手加減をせず略奪襲撃凌辱を行い、列強の激発を誘引せよ。特に英国は最大の標的とすべし」
ソ連大使館には具体的な行動計画がモスクワから指示されていたことを示す文書が多数発見され、実際にその計画とここ数ヶ月の情勢が一致を見た。これによって北洋政府は支那を代表する政府として9日にソ連に対して外交関係の断絶を宣言、在支ソ連資産の凍結を表明していたのである。
無論、これに黙っているソ連ではなかった。10日には対抗措置の声明を発表している。
「北洋政府の振る舞いは許せるものではなく、相互信用を崩壊させるものである。また、大使館の制圧の報復として東清鉄道の運行停止を宣言すると同時に東清鉄道に関する権益を接収し、鉄道沿線の保障占領を行う」
シベリア出兵で多大な犠牲を出したソ連は軍事力の再編が急務であり、実際にすぐに派兵してくるというものではなかったが、彼らも面子がある。兵力の一部は実際に満ソ国境を突破し、ハイラルにまで進出したのである。
極東情勢は支那を中心に玉突き事故のように武力衝突一歩手前まで進んでいたのである。
その様な中、チェンバレンは列強を代表して支那に存在する全ての政治的軍事的勢力へ11日に声明を出したのである。
「去る3月に発生した南京事件、そして昨年来から続く支那における諸問題に対し、我々列強は支那各勢力に対し、正式に抗議するとともに問題解決に向け責任者及び首謀者の処罰を要求する。また、同時に我々列強の権益侵害に対する賠償も請求する。」
並み居る記者団に向けてチェンバレンは言い放つ。
ここに英国総領事館に詰め掛けている記者の多くは列強のそれであるが、支那人の記者もチラホラと見える。その表情は屈辱に満ちた表情のものもいればポーカーフェイスで表情が読み取れないものもいた。
「これを容れられない場合、我々列強は北京、天津、上海、南京、広州とその周辺地域の保障占領を行う。これは要請ではなく、要求であり、拒絶する場合、国際社会の敵として懲罰を与えるものであると宣言する」
この声明に支那全土で反英武力闘争を叫ぶ声が高まるが、逆に明言された都市とその周辺は早期解決を叫ぶ声が高まったのである。
人間、往々にして対岸の火事には鈍感であり、他人事だからこそ過激なことを主張できるのであるという証明だった。




