砂上の楼閣
皇紀2587年3月31日 支那 上海
史実とは経緯が違うが南京事件は発生した。これによる被害の規模は史実よりも拡大しており、特に犠牲者の多かった英国は英印軍に命じて南京、上海の保障占領を行うと25日の緊急閣議で決定し、英国議会もそれを追認した。
特に支那利権を一手に引き受ける香港上海銀行などの現地英資本も英印軍の展開を歓迎し、その駐留費用を供出すると宣言するほどであった。
上海に租界を持つ日英米仏の列強は直ちに上海防衛のため共同租界をすっぽり包むように土嚢による防壁の建設を開始したのである。
これは英米の要求に日本側が応じた結果、列島改造で使用されている資材を転用することで賄うことが出来たのだが、山陽本線の工事用に集結していた重機も船便で送られ、30日中には陸揚げされたのである。
これらによって租界の外にある地域を問答無用で立ち退きさせ、更地にして陣地構築の工事が進められた。これによる上海市民の列強への反感は強まったが、彼らもまた南京で起きた惨状を知っているため反感と自らの身の安全を天秤にかけ渋々従ったのである。
租界の広さもあり、全ての防衛は不可能であると判断され、重点的に防衛されるべき地域としてバンド地区と上海港を中心とする扇状に半径2kmが設定された。
これによって実質的な日本租界となっている虹口地区に関しては防備が手薄となったが、バンド・上海港地区の防備が完了した後に追加工事を行うこととなった。
いずれにせよ、国際社会の共通した認識は上海という橋頭堡を何があっても死守するというものであり、その中心であり金融の拠点であるバンド地区は他を失っても守るというものだ。
だが、問題点も多かった。
そもそも、上海は都市であり、バンド地区を中心として高層建築が多い地域に住まう人口は数万を超えている。その人口を養う手段が列強にはなかった。
あるのは現地調達……つまり租界の外からの買い付けであり、現下の状況ではそれも危険と言わざるを得なかった。結局、そこで期待されたのは日本という供給地であった。
結果、日本郵船、大阪商船などの海運会社はフル稼働で食料品のピストン輸送に駆り出されることになり、日本国内での船舶需給バランスが崩れるという問題までも発生した。
だが、これらも一時的な問題であると列強各国ともに楽観視していたが、事態は思わぬ方向に進み、長期化するのである。




