昭和金融恐慌
皇紀2587年3月18日 帝都東京
史実では3月14日に大蔵大臣片岡直温の失言によって昭和金融恐慌が発生したが、この世界では同じ若槻内閣であっても大蔵大臣は濱口雄幸であり、Xデーは何事もなく過ぎ去ったのであったが……。
史実において片岡失言によって取り付け騒ぎが起き、そのあおりで資金繰りに苦しんでいた鈴木商店が破綻し台湾銀行にまで影響が及ぶという有様であったが、この世界では鈴木商店は不採算部門の分離売却や資本の強化によって経営を持ち直しつつあった。
無論、その裏には有坂総一郎による金子直吉への援助があったわけだが、金子は鈴木コンツェルンの立て直しと集約を強力に推し進め、同時に海軍からの造船施設拡充政策の指定企業に指名されたこともあり、業績は回復しつつあったのだ。
だが、鈴木商店そのものの問題は解決したが、台湾銀行はそうはいかなかった。元々、過剰融資体質であり、同時に日本銀行や大蔵省からの借入金に依存する経営になっていたこともあり、鈴木商店の破綻がなくても経営の行き詰まりは明らかであった。
とは言うものの、総一郎や他の財界人が台湾銀行への介入が出来るかと言えばそういうわけにはいかなかった。国策によって設立された特殊銀行である以上、そうそう簡単に介入が出来るものではないからだ。
史実では東京渡辺銀行が失言を理由に計画倒産したが、この世界では資金繰りに失敗したことで17日に経営破綻し、蔵相の失言という経緯を経ずに昭和金融恐慌が発生したのであった。
そして明けて18日、台湾銀行の本店支店には預金引き出しを求める人々が列をなし、台湾総督府は台湾銀行の一時的閉鎖を宣言したのであった。
不幸であったのは台湾銀行が台湾において最大の商業銀行であったこともあり、当局の閉鎖命令によって資金がショートする企業が続出したのである。
内地の経済は列島改造の影響によって景気が拡大している中での出来事であり、これは総一郎らの内地優先政策による影響が大きいだけに、総一郎は20年に渡る歴史改変において最大の失敗だったと後年述懐している。
台湾との付き合いが大きかった内地の企業は軒並み影響を受け、帝国政府も支払い猶予を発令し、事態の収拾を図るのだが、その効果が出る前に体力がない中小企業の倒産や破綻が相次いだ。




