英印軍、上海上陸
皇紀2587年2月14日 支那 上海
正月が明けたばかりの4日、支那人民は暴挙に出た。漢口の英国租界に雪崩込み、これを占領し、租界の回復を宣言し、ここに紅旗を掲げたのである。
この事態が上海を経由して英国本国に伝わると英国本国の議会は紛糾し、7日には抗議声明を発表。同時に派兵準備を下命、シンガポール、ボンベイに駐留する英印軍に出動待機が命じられたのである。
前年のタングステン・ショック以来、出動態勢にあった英印軍にはシベリア出兵と欧州大戦の戦訓から本国軍の定数よりも機関銃が多く配置されており、その練度はグルカ兵にも劣らぬものであった。これは大英帝国が本気で支那への介入を図る意思を示していると言っても良かった。
だが、同時に本国からの援兵は存在しなかった。本国の欧州大戦以来の厭戦気分は拭うことが出来なかったのだ。そのため、植民地兵を矢面に立たせて血を流させることを狙っていたのだ。
また、5・30事件において支那人民の憎悪の対象は英国人とその尖兵である印度人であったこともあり、英国本国にとっても反目させる意味でも都合が良かったのだ。
1月19日には正式に出動命令が発令され、ボンベイから3個師団がシンガポールへ向かったのである。この動員には本国でも過剰戦力であると疑義を呈されたが、大蔵大臣兼支那問題担当大臣であるウィンストン・チャーチルが押し切ったのであった。
「諸君、東洋にはそこら中に華僑がいる。マレーにもシンガポールにも香港にも! 敵は外にだけいるわけではない。内にも潜む敵に備えねばならん!」
彼の言葉を植民地大臣、海軍大臣らが肯定し、彼ら当事者たちの支持を受けたこともあり、閣内の意見はチャーチル一派によって固められた。閣内を抑えたチャーチルは議会工作にかつての部下や彼の人脈を惜しみなく投入することで多数派を確保するに至り、支那派兵、事変の拡大が事実上確定したのだ。
米国もこの事態には驚愕し、英国よりも早く11日には出兵が命じられていた。米国の動きはまさに迅速の一言であった。12日にはフィリピンに駐留する1個連隊がアジア艦隊とともにキャビテ軍港を出港、16日には上海沖に姿を見せ、17日中には米国租界に展開したのである。
米国の迅速な展開に最も過敏に反応したのが実は蒋介石だった。
彼は米国(の一部勢力)と裏取引して援助を引き出していただけに米国政府が上海に派兵した事実に驚愕し激烈に抗議を出したのである。
「欧州列強と歩調を同じくするアメリカの正義はいずこにありや」
抗議はするものの、彼の勢力、広州政府は未だ漢口には遠く、湖南省、江西省、広東省を完全に抑えたに過ぎない。最前線の岳陽から漢口までは200kmもある。だが、目前の地と言えなくもない距離に迫ってはいるが、広州から岳陽までの補給線は細く、物資は時折途絶しているのだ。現地軍閥を吸収することで物資欠乏と兵力の不足を補ってはいるが、如何に蒋とて容易に進撃は出来ない。
日英仏蘭に事実上の海上封鎖をされている支那という地域を支える存在はソ連と米国だけだったが、その米国が自国権益を守るために派兵に動いたことは彼にとって誤算だったに違いない。
そして、2月14日。
シンガポール・マレーという後方の安全を確保した上で遂に英印軍が上海に上陸したのであった。




