後藤新平
皇紀2582年3月10日 帝都東京 神楽坂
満州での根回しを終えた有坂総一郎は帝都へ舞い戻り、次なる大仕事へ着手していた。
史実において後年計画された弾丸列車構想の蒸気機関車を満鉄にいる島安次郎に設計させることに成功した彼はそれを内地で走らせるための下準備を始めたのだ。
総一郎が次に面会を求めたのは元満鉄総裁にして初代鉄道院総裁であり、現東京市長の後藤新平。彼もまた島と同じく改軌論者であり、改軌構想を主導した人物である。
その後藤を神楽坂の料亭に招待し、彼の到着を総一郎は待っていた。
「遅くなりましたか……申し訳ない」
矍鑠とした老人が女中の案内で部屋へ入ってきた。
「いえ、こちらこそ、お忙しいところをお呼びだて致しまして……有坂総一郎と申します」
「東京市長……いや、有坂君、君には広軌論者と言った方が都合が良いか?後藤新平だ」
「さぁ、おかけください……あぁ、女中さん、すまないが、すぐに燗を用意してくれないか?」
互いに自己紹介をし、案内役の女中に熱燗を用意するように頼み席に着く。
「この老人に面会を求めるとは一体何用かな?」
「恐らく、大連の島さんから何かしらお聞きではないかと思いますが……後藤先生にはもう一働きしていただきたく願っております」
「ほぅ、もう一働きと?確かに島から手紙が届いて、君のことが書かれていたが……島は君に随分煽られた、こちらが想像もしない提案をいくつかしてきたと書いてあったな」
「はい、島さんには欧米にも負けない強力な機関車を造って欲しいと頼みました」
「まぁ、満鉄ならば標準軌だからな、150km運転出来る機関車を造るのは難しいことではないだろう……だが、内地ではそれは難しいぞ?」
「どこまでお聞き及びで?」
後藤は総一郎を値踏みするようにじろっと見てから口を開いた。
「君は先日の暗殺未遂事件で原とのパイプをつくったそうだね?」
「ええ……総理には死んでもらうわけには参りませんから……」
「ふむ……私はアレが好かぬ……奴の背後におるのは山縣であるしの……」
後藤は桂太郎、児玉源太郎などの長州系の人脈を持ち、それを背景に立身出世し影響力を行使していただけに、長州閥の総帥である山縣有朋からは相当に嫌われていた。そして、山縣有朋とつながりを持っていたのが原敬であり、また、原敬は改軌よりも新線建設を政策としている。
「先生と総理は正反対ですからね……ですが、総理の新線建設優先のそれもまた帝国の発展には重要なのです……」
「それはそうだ……我が帝国……内地は未だに江戸時代と変わらん地域がいくつもある……」
「ええ、それと同時に都市部への産業の偏在は国防という観点からも適切ではありません。しかし、だからと言って、今の狭軌という貧弱なインフラでは折角作った新線も宝の持ち腐れではありませんか?」
「それはそうだ。鉄道はスケールメリットが重要だ。道路や自動車が未整備の我が帝国では鉄道こそ動脈だ。そして、これからは速度と輸送力の強化が重要なのだ……」
「で、あれば、先生には総理と和解していただき、その慧眼と指導力を鉄道行政に活かしていただきたいのです……」
総一郎はそう言うと決断を促す。
「お待たせいたしました……料理とお酒をお持ちいたしました……お並べしてもよろしいでしょうか?」
先程の女中と膳を持った女中が障子の外から声をかけてきた。
「あぁ、構わない。宜しく」
「では、失礼いたします」
女中たちは手際よく料理を並べて、一礼して去っていった。
「先生、まずは一杯……」
「おぉ、すまないな」
総一郎は酒を勧めて場の空気を和ませようとした。
「先程の問いだが……今少し時間をくれぬか……すぐには返答出来ぬ」
「早い方が良いのですが、即答を強いるつもりはありません……ですが、色よいご返答を期待しております……無論、私からも総理には働きかけを行いますので、先生のみが頭を下げるという形を取らせるつもりはありません」
「そうか……近いうちに返答をしよう……さて、有坂君、君も一献」
「ありがとうございます。頂戴いたします」
後藤に勧められた酒をぐっと煽る。
「……やはり、冷の方が私は好みですな」
「うわぁはははは……まだ若いな……うむ……若いということは良いことだ……色々なことに挑戦出来る、無茶も出来るからの」
「左様で……」
ひとしきり笑い満足してから後藤は幾分か柔らかい表情になってから口を開いた。
「さて、島からは大筋は聞いておる。標準軌への改軌、それと新型高速機関車の開発と製造……そして満州の地質調査……」
「地質調査のことまで?」
「あぁ、地質調査とだけ文にはあったが……君の狙いは石炭や鉄鉱石ではないのだろう?」
後藤はニヤリとして言った。
「石油が狙いではないのか、違うか?」
「……ええ、その通りです。我が帝国とその影響力を行使出来る地域では石油資源が商業ベースになるほど産出出来ません……が、満州は恐らく出るかと……」
「ふむ……まぁ、そうだな……不思議はないであろうな……問題は出たとしても我が帝国にはまともに採掘する技術がない……まして精製技術など……」
「当てはあります……ただし、掘り当てないと駄目ですが……」
「ほぅ?」
「英国資本のライジングサン石油ならばあるいは……」
「ライジングサンか……なるほど……面白い……ロンドンのマーカス・サミュエル男爵と接触出来れば面白い結果となるのではないかな?」
マーカス・サミュエル……親日家のユダヤ人でライジングサン石油を創設し、石油の輸入と精製から販売まで行った人物である。1902年にはロンドン市長となり、1921年には男爵となり貴族の仲間入りをした人物である。
「なるほど、しかし、彼への紹介状は……」
「……西園寺公が適当だろうな……だが、奴とも私は仲が良くないからな……」
「それ、先生が悪いのでは?」
「それを言うな……私にも立場がある……」
「わかりました……西園寺公には別の方向から接触してみるとします……総理も西園寺公とは仲が悪いですからねぇ……」
「うむ、これは役に立てそうはないな……さて、他の話題だが……」
総一郎と後藤の会合は深夜にまで及び、二人揃って足腰立たない程酔って料亭の女将や女中に迷惑をかけることとなるのであるが、それはそれである。




