新帝即位……北鮮開発の裏事情
皇紀2586年12月25日
この日、史実通りに大正天皇が崩御。
前日の24日午前は冬の陽光に包まれていた葉山御用邸だったが、天皇の容態と比例するように次第に曇り、やがて風雪吹き荒れ雷鳴轟く天候となった。大正帝の崩御を受け、摂政宮皇太子であった裕仁親王は葉山御用邸にて践祚、同時に昭和と改元された。
極東において君主が代替わりした同日、関東州大連は南満州鉄道本社において北鮮開発事業の調印式が行われたのである。
ファンド形式で募集がかけられた北鮮開発事業だが、第一期は日本国内の企業や資本家向けに行われ、財閥を中心にこれに応募が殺到した。当初目論み通り、ファンドの調達予定額の6割近くがこの第一期募集分で集まったのである。
10月28日に募集を発表したその会場には財界関係者が詰めかけていた。
堤康次郎は例の如く、その場で見せ金を積み上げ、いの一番に応募を宣言、並み居る財閥関係者の度肝を抜くとともに言い放ったのだ。
「この機会を逃せば北鮮の利権は手に入りませんぞ? グズグズしておっては列強によってその利益を持って行かれる。それをあなた方は黙って指をくわえてみておるというのですかな? ならば宜しい。この私がカネを集めてさらに出資する。無論、その利益は皆私のモノだ!」
堤はそう言うとともに側近を呼び、さらに現金を持ち込むように指示を出し、それを見た財閥関係者は系列銀行や中核企業からの出資を次々と宣言したのである。
「堤さんには敵いませんな」
五島慶太は白々しい芝居を打つが、その場にいた者は皆一様に同じような感想を持っていたのである。これによって財界は北鮮開発に大なり小なり関わることになったのだ。
だが、これにはカラクリがまだある。
朝鮮総督府は帝国政府から半島の開発予算を預かっているが、これを満鉄に委託料、顧問料などと言う名目で支払いを行い、それをダミー会社を通して出資していたのだ。結果、ファンド調達予定額の1割は朝鮮総督府から出資であり、2割が満鉄からの出資、残り3割程度が財閥や資本家などからの出資となっている。
これによって3分の1は帝国政府系の持ち分となり、帝国政府の影響力を確保してあったのだ。このカラクリを知っているのは東條-有坂枢軸の一部の人間、有坂総一郎と東條英機、そして堤康次郎、鮎川義介の4人である。




