転んでもただじゃ起きない
皇紀2586年10月19日 帝都東京
東洋のセシル・ローズこと外務大臣森恪の「怠け者は黙れ!」演説によって非公式会合は空中分解し、アメリカ代表団は面子を潰された格好になっていた。
だが、これを公式非公式問わず非難することは躊躇われた。日英が協調して強硬姿勢を示し支那の自業自得と非難していること、世界全体の経済バランスを崩している元凶が支那自身であることを考えると得策ではなかった。
少なくとも米国にとってもタングステンの価格吊り上げと出荷制限には大きく頭を抱えている事実は変わらず、これを何とかしない限り鉄鋼業界を中心に影響が出るのは間違いなく、下手をすると恐慌や取り付け騒ぎすら起きかねない。
問題はタングステンの供給が偏っていることだ。他国でも産出があるが、まとまった量と価格の安さを考えるとどうしても支那には劣る。
実際に現代では埋蔵量の半数、産出量の8割が支那であるという。ロシアやカナダ、豪州でも産出するが、これらには大きく及ばない。また、北朝鮮にも埋蔵量では相当なものがあると言われているが、開発されていないのでは、無いも同然である。
だが、帝都東京は新橋にある有坂重工業本社ビルの社長室において一人ほくそ笑む人物が居た。
「さて、舞台は揃いましたな。皆さん、森さんの一言で日欧と支那の手打ちはほぼなくなりました。満鉄に依頼して調査してきた結果を開陳する時が来ました。これで欧米の資金は日本に流れます。彼らのカネで鉱山が開発出来るのですよ」
転生者有坂総一郎である。彼は元々、戦略資源の発見のために未来知識によって探索ポイントをあらかじめ満鉄調査部(時期において名称は変わるが)に依頼し、満州・朝鮮の調査を行っていたのだ。
だが、蒋介石が史実にはない行動に出たことでタングステン・ショックを引き起こし、世界的な需給バランスが崩れたことで国策としての開発ではなく、外資を利用し開発促進を狙う方向へ方針を変更したのである。
そして、その情報を握る東條英機大佐、島安次郎、仙石貢鉄道大臣、鮎川義介らを呼び、遂に世界への公開と出資を求める記者会見を開くことを伝えたのだ。
「蒋介石が要らん真似をしてくれたことが逆に我が帝国にとって利益となった形です。そして、森さんが止めの一言を言ってくれたことでアメリカの横槍による事態収束という可能性をも潰してくれました。まさに今がその時、”敵は本能寺にあり”です」
総一郎は興奮気味に言い切る。
「有坂君、確かに高騰しているタングステンだから欧米は乗り気になると思うが、そうも容易く事が進むかね?」
仙石は政治家として慎重論を唱える。前のめりになりやすい総一郎の性格からストッパー役をするのは自分だと彼なりに考えている。
だが、有坂邸謀議、東條-有坂枢軸に与する者としてこれがうまく機能すれば、商工省の若手官僚の統制主義に十分対抗出来、同時に外敵の力を利用して国力を高めると理解はしているだけに期待するところは大きい。
「仙石大臣、ここは勝負所、堤さんがいたら、あの人、きっと見せ金作っていの一番に出資すると宣言して他の出資者を募る博打に出ますよ……。そして、あの人は先行者利益と競合することでの発展をよく理解している人ですからね。欧米にはそういうビジネスチャンスに聡い連中がごまんといます。そういう連中はこぞって出資をしてくれるでしょう」
鮎川は総一郎をフォローするように堤康次郎を例に出す。
鮎川は日立金属の源流となる帝国鋳物・木津川製作所・安来製鋼所という鉄鋼メーカーを率いる実業家だ。史実では28年に義弟久原房之助率いる久原財閥の経営を委ねられ、日産コンツェルンに再編し後年満州へ進出した人物だ。
満州時代に東條や商工省の岸信介らと知己を得て満州の弐キ参スケの一角を占める。
その彼との関係が生まれたのは総一郎がフォード・ジャパンの工場建設に関係して島根県安来を訪れた時のことである。元々、総一郎は鮎川との知己を得んとしていたが、機会がなかったのだが、丁度折りよく、鮎川が安来製鋼所の経営の都合で安来を訪れていた時に、同所の鷺の湯温泉にてたまたま出会ったのである。
それ以来、東條-有坂枢軸に加わり、堤、藤原銀次郎、五島慶太、小林一三らとともに財界人として歩みを共にしているのである。
「まぁ、なんにせよ、欧州勢力がケツ持ちしてくれるのであればこちらはあまりカネを使わずにタングステンを手に入れることが出来るのだから精々高く買ってもらうまでだ。そのためにも商工省を黙らせんとな」
東條の一言はある意味最大の難関を言い表していた。




