謀略渦巻く南海の楽園
皇紀2586年10月10日 アメリカ領フィリピン マニラ
南シナ海を封鎖する大英帝国には大日本帝国、フランス共和国、オランダ王国が同調し、これを支持、同時に周辺海域のパトロールと称して中華民国(各政府支配地域)へ出入りする船舶を圧迫していた。
これに対してアメリカ合衆国は門戸開放を建前にタングステンの自由化を条件として中華民国側と日欧の仲介をすると公式に発表。カルヴァン・クーリッジ大統領は世界経済の自由な商取引を守ることこそ我らの責務と語り、関係国に妥結を呼び掛けてたのである。
大英帝国もこの時期に至り、表面上は兎も角、直接上陸作戦を行ってまで介入をしたいとは正直なところ思ってはいないためどこかの時点での妥結を望んではいたのである。
大日本帝国も軍備が整っていない状態での警備活動は予算圧迫でしかなく、大蔵省の海軍予算圧迫によって極力早期に手を引きたいというのが本音であった。
フランス共和国とオランダ王国は同調こそしているが、実際には艦艇を派遣しているわけでもなく、英国東洋艦隊の補給や領海への展開を認めているに過ぎないが、それでも戦間期において余計な出費はしたくないという本音が見え隠れしつつも戦略資源の価格吊り上げには断固許すまじという立場である。
包囲網を形成するどの国も手を引きたいけれども手を引くことは広州政府の暴挙を認めてしまうことになるため振り上げた拳を下せずにいたのである。
だが、広州政府の蒋介石も引き際を考えるとこれ以上無駄に列強を刺激しても得るものはないと軟化の姿勢を示し、水面下で交渉を行い上海に進出している石油メジャーのスタンバック社を仲介として米政府に接触し、意向を伝えたのであった。
だが、そこからが迷走の始まりだった。
蒋としては出来る限り外資の流入を阻止したいが、大陸権益で特に出遅れているアメリカにとってまたとない機会でもあり、上海を拠点に中支地区へ進出を狙っていたのである。
中支地区は元々は日英の影響力が大きい地域であるが、先の5・30事件の結果撤退する企業が多く、その結果、勢力図としては空白地域となっていたこともあり、アメリカ資本は急速に投資を伸ばしていたのであった。
だが、ここで南京の赤化国民党が難癖をつけて排斥を行い、アメリカは国家と財界の利害が一致し、蒋の広州政府を支援し、赤化国民党を始末し、出来れば同時に日英の影響力をも削ごうと画策していたのである。
無論、クーリッジはこの謀略には関わっていないが、一部閣僚や国務省、商務省などが財界と結託し彼の知らないところで蠢動していたのである。




