独壇場のチャーチル
皇紀2586年6月1日 大英帝国 ロンドン ウェストミンスター
「ビヤ樽とは失礼な……外相、あんたはこの事態に手をこまねいて見ていようというのか?」
ウィンストン・チャーチル大蔵大臣は自身の席に着こうと扉から歩いてくるオースティン・チェンバレン外務大臣に向かって言う。
「事態の推移は私はよく承知している。君以上に知っている。今回の事態は内戦に過ぎない。それに介入するのは大英帝国の威信にかかわる。今回は以前の5・30事件のように我が大英帝国や列強に実害が出ているわけではない。仮に派兵するとしても事態の推移を注視してからにすべきである」
チェンバレンは簡潔に述べる。
彼からしてみれば国内情勢だけでも面倒事を抱えているのに対外情勢にまで首を突っ込む余裕などないのである。
具体的な実害が出ていない状態で兵を出すのは国際信義上もよろしくないと考えていたのだ。ルール占領に出て国際的に不興を買ったフランス・ベルギーの二の舞は御免だとチェンバレンは内心思っているのである。
――去年のロカルノ条約で欧州内の問題が片付いたというのにそれを早速無効にする真似を私にしろと言うのか、そんなことは御免だぞ。泥をかぶるならビヤ樽が一人で被ってくれ。
チェンバレンは眉間にしわ寄せつつチャーチルを睨むが、チャーチルは睨まれていようがお構いなしである。早くも2本目の葉巻に取り掛かろうとしているくらいの余裕を見せている。
「外相、よく考えてくれ。5・30事件で負った我々の傷は余りにも大きい。余波による広東や香港でのゼネスト、デモによって香港経済はズタズタにされた。沙面租界での衝突やその後の香港での騒ぎで支払った我々の出費は余りにも大きい。香港貿易は50%、海運は40%、地代は60%の下落……いや大暴落だ。これを支えるために如何ほど我々は出費したと思うのかね?」
チャーチルはチェンバレンの実害が出ていないという主張を崩しにかかる。彼は蒋介石の北伐を5・30事件の延長であり、大陸利権を失うかどうかの存亡の時であると主張する方向で様子見をするためにゆさぶりをかけたのだ。
「300万ポンドだ……」
チェンバレンは苦虫を嚙み潰したような表情で応じる。
「そう、300万ポンドだ。これほどの巨額の融資をしなければならなかった。その責任はどこにあるのか? 我々か? 違うな? 責任は彼らにある。東洋の蛮族如きが栄光ある大英帝国に噛み付いたのだ。違うかね?」
チャーチルは続々と閣議室に集まってきた閣僚たちに向かって言う。
「諸君、連中によって我が帝国は大きな損害を受けたのだ。であれば、かつて阿片を没収され燃やされ、立ち上がった阿片戦争の時と同様に我々は動き出すべきではないのか?」
居並ぶ閣僚たちは頷く者もいればどちら付かずのものもいる。積極的に反発する声が聞こえては来ないが、彼らとてまだ決断出来ていないだけだろう。
チェンバレンも場の空気がチャーチルに傾きつつあることに挽回せねばならないと考え口を挟む。
「だが、事態は落ち着いて来た。落ち込んだ香港の情勢も回復傾向にある。その状況で再び兵を出すことは逆に香港の灯を消すことになるのではないのか? 香港は我が帝国にとって重要なチャイナへの足掛かりだ。これを失うのは極東への影響力を失うも同義だ」
チェンバレンは介入の必要性そのものは否定はしていないが、現段階での介入には否定的であり、それを訴えかける方針に出た。
「今はまだ、様子を見るべきだ。インドに駐留する東洋艦隊のシンガポールへの移動と香港に対する臨戦態勢程度にとどめ、情勢の変化に合わせて行動するべきだ。改めて言うが、今はまだ兵を動かすには時期尚早だ」
この時チャーチルは葉巻を加えながら口端を吊り上げた。
「首相、外相はああ言っているが、私はそうは思わない。何故か? 蒋介石とドイツの間に密約があるからだよ。この密約が実行されるということは欧州大戦の戦後の枠組みやロカルノ条約による枠組みを覆しかねん。その時点で極東への影響力に重大な危機が迫っていると断言しよう」
チャーチルは切り札を切った。彼にしてみれば、今までがお膳立てに過ぎなかったのだ。本命はこちらである。これを提示することは即ち、介入を決意せざるを得ないことを意味するのだ。要するに最初からチャーチルの思惑通りだったのだ。




