北伐の開始
皇紀2586年6月1日 支那 広州
「蒋介石起つ!」
英領香港を中継した緊急電が列強各国に伝わったのはグリニッジ標準時0時を過ぎた頃だった。
昨年12月の広州事変から蒋介石は足元の広東省の掌握を進め、同時に各地の軍閥に同調し行動を共にするようにと檄文を飛ばしていた。しかし、彼は在支那のドイツ人を懐柔し、ドイツ本国から少数の軍事顧問団を招聘するなど慎重に事を進めていたのである。
史実であれば中山艦事件から3ヶ月で行動に移した彼だが、この世界ではより慎重に万全の態勢を整え、不穏分子の排除とソ連式からドイツ式への軍制の改革を行い、ソ連の影響力を排除するなど行動に移るまで5ヶ月もの準備期間を設けて行動に移したのだ。
軍制変更を行った際に蒋介石はドイツへの旧権益の一部回復を約束し、その見返りにクルップなどから大量の銃火器を入手すると同時にGew88、Gew98のライセンスを受け、その工場を広州に設立し、その量産品を自軍に供給することで、保有銃火器の統一を図ったのであるが、約半年の準備の結果、十分な調練を積んだ蒋介石子飼いの軍隊は大陸でも有数規模の軍事勢力に急成長したのであった。
その立役者となったのはドイツ軍事顧問団を指揮するゼークト退役大将である。
ゼークトは前年に元皇族であるプロイセン王子を自身の指揮する部隊の演習に無断で招待したことによってドイツ政府と対立し、退役を余儀なくされていた。史実よりも1年早いが同じ経緯を辿ってドイツ国防軍を退役した彼は在支那のドイツ人実業家からの要請に応え元部下などを誘いドイツ軍事顧問団として広州に渡ったのである。
この時、ゼークトは北伐の戦略を構想していなかったが、赴任し、蒋介石と会った際に彼から北伐に関する戦略・戦術の構想立案を依頼され、前大戦の経験をもとに全体の戦略を構想することになる。
史実では北伐の戦略構想にはソ連顧問団のブリュヘルが関与しているが、ブリュヘル自身がシベリア出兵の関係で左遷されてしまったこととソ連顧問団の追放により北伐は史実とは異なる動きを見せることとなるのであった。




